慶応大学菊澤ゼミナールHP

私の趣味

私の著書

1)新制度派経済学入門

2014年7月25日 (金)

ウイリアムソンのいう「Remediable」とは何か

 

 これまで、取引コストには2種類あると思ってきた。ひとつは、ある組織的なデザインのもとで、メンバー同士の機会主義が生み出す取引コスト。そして、これを抑止する制度が、ウイリアムソンがいうガバナンス構造であり、ガバナンス・コストである。それは、また静態的取引コストともいえるかもしれない。これについて語っているのが、主にウイリアムソンだと思っていた。

 

 これに対して、ある状態から別の状態へ変化する場合、既存のメンバーを説得する必要があり、そのために発生するコストも取引コストであるといえる。このようなコストについては、主にコースが語っているので、コース的な取引コストだと思っていた。

 

 ところが、ウイリアムソンもこのようなコストについて言及していることが、折谷先生の指摘で分かった。ウイリアムソンは、政府や政治家による所得の再配分問題で、このことを述べている。

 

 もし現存の状態が非効率的で、何らかの政策を展開する場合、実行可能性のある代替案と比較する必要がある。このとき、新しい政策を展開する場合、「デザインによる非効率(コスト)」や「セットアップコスト」が発生する。それでもなおメリットを生み出すような政策案の場合には、それは「remediable(治療可能?)」な政策とし、利益を伴わない場合には「irremediable(治療不可能)と呼んでいる。

 

 つまり、私がこれまで不条理と呼びうる現象が発生しうることを、ウイリアムソンも必ずしも明確ではないが、説明していることが分かった。ウイリアムソンも、たとえ現状が非効率的でもそれを治療できるような代替案がない場合には、それは非効率的でないということを述べているように思える。つまり、私が指摘している合理的失敗(不条理)があることを認めているように思える。

 この点について、今後、もう少し調べる必要があると思い、現在、研究中。ウイリアムソンが「remediable(治療可能?)」という用語に関心をもっていることもわかった。気が付かなかった。

菊澤 研宗: 組織は合理的に失敗する(日経ビジネス人文庫)

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菊澤 研宗: 戦略学―立体的戦略の原理

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菊澤研宗: 戦略の不条理 なぜ合理的な行動は失敗するのか (光文社新書)

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2010年9月27日 (月)

尖閣諸島問題は経済問題から政治的問題へ

 尖閣諸島をめぐる領有権(所有権)の問題は、これまで所有権理論的に説明されうる状況だった。

 つまり、所有権理論によると、所有権を明確にすると、その財を利用して発生するプラス・マイナス効果が明確に所有権者に帰属されるので、所有権者はマイナスを避け、プラスがでるように財を効率的に使用する。しかし、所有権を明確にするにはコストがかかる。この明確化に関わるコストがあまりにも高い場合には、所有権を明確にしない方がより効率的であるという理論である。

 この理論によると、尖閣諸島をめぐる所有権が明確ではないと、尖閣諸島近海の石油資源を有効に利用できない。しかし、それを有効に使用するために、所有権を明確化しようとすると、近隣諸国と戦争が起こりかねない。その所有権の明確化コストはあまりにも膨大に大きいだろう。それゆえ、日本は必ずしも強硬に所有権を主張してこなかった。むしろ、あいまいにしてきた。それが、経済学的に効率的だったのだ。

 しかし、このような経済原理を無視して動き始めているのが、尖閣諸島問題だ。もはや経済学的な問題を超えて、いまや非合理的な軍事や政治的な問題となりつつある。

 理論や論理が強い現在の内閣は、所有権理論的に問題を経済理論的に理解していたのかもしれない。しかし、その次元はもう終わっているのだ。

 いまや、問題はいくぶん非合理的な政治的圧力や暴力の次元に移行しつつあることに注意する必要がある。大変な事態である。日本、がんばれ!

 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/443985/

2010年2月 3日 (水)

取引コストを避けることと取引コストを削減することの違い

 先週の日経ビジネスでは、ウィリアムソンの取引コスト理論を用いて、幸福な組織と不幸な組織について書いた。

http://www.excite.co.jp/News/magazine/MAG21/20100125/353/

 限定合理的で機会主義的な人間(不完全ですきあらばという人間)同志の付き合いは、相互に自分が相手の目的のための単なる手段として使われるのではないかと疑心暗鬼になり、用心する。そして、そのために無駄なことをする必要がある。これが取引コストだ。

 たとえば、上司と部下の関係だ。相互不信がある上司と部下の人間関係は取引コストが高い。ここで、この取引コストとどのように対峙するかで、「不幸な組織」と「幸福な組織」に分かれるのだ。

「不幸な関係ー取引コスト回避」

部下は上司との間の取引コストが高いので、それを回避するために、できるだけ上司との対話を避ける。

「幸福な関係ー取引コスト削減」

上司は部下との取引コストが高いので、それを削減するために飲み会やレクレーションなどに部下を誘ってできるだけ取引コストを節約する。

この違いを理解することは重要だと思う。

2009年8月18日 (火)

取引コストは知性的世界3の住民か

 拙著『戦略学』で、私はポパーの世界観にもとづいて取引コストの本質は知性的世界3の住民だとした。

ポパーによると、世界は以下の三つに区別される。

物理的世界1=物理的肉体的世界、貨幣の増減、資産の増減、会計上の損益

心理的世界2=心理的状態の世界、心理的損益

知性的世界3=知性によって理解できる世界、観念、知識、理論内容の世界、取引コストの増減

 この点に関して、いろんな意見をいただいている。取引コストは物理的世界でのコストではないか?心理的コストでもあるのではないか?

 確かに、物理的コストに反映された取引コスト、心理的にコストに反映された取引コストが存在するという言い方もできるかもしれない。しかし、取引コストの存在自体は世界3であり知性的世界である。そう言いたい。

(1)たとえば、いまある大学生3年生が米国のどこかの大学に1年間私費留学をしたいと思ったとしよう。留学をするためには、事前に米国の大学の情報を集め、大学と交渉し、そして手続き・・・という膨大が無駄が発生することを、だれでも理解するだろう。このときの交渉・取引をめぐる無駄が「取引コスト」であり、それはいまだ物理的なお金として計算できない「観念上のコスト=知性的世界の住民」である。

(2)ここで、この取引コストを節約する制度として、仲介業をしている会社があるとする。彼らは物理的なコストを計算し、仲介料として30万円を要求するものとしよう。

(3)このとき、仲介料30万円は取引コストを反映するものとして、それを取引コストと呼ぶ人がいるかもしれない。

(4)しかし、30万円は厳密には取引コストではない。われわれは、自分たちが描く観念としての「取引コスト」とこの「物理的コスト30万円」を比較して、もし「取引コスト」>「物理的コスト30万円」ならば、仲介を依頼し、「取引コスト」<30万円ならば、依頼しないで留学をあきらめるかもしれないのだ。

このように考えると、知性的世界3の「取引コスト」と物理的世界1の「コスト」とは異なるのだ。

●取引コストが知性的世界の実在であるという点についてのさらなる説明について、もう少し時間をください。

2009年7月 6日 (月)

新制度派経済学の限界

 私は、これまで新制度派を専門に研究してきた。制度によって、多くの問題が解決されると思ったからだ。また、それは経験科学としての特徴を持っていると思ったからだ。

 しかし、最近、新制度派に限界も感じている。もちろん、もともと新制度派経済学など完全なものとは思っていない。新制度派経済学を愛するがゆえに、誰よりも早く、誰よりも強く、その限界を感じるようになったといいたい。

 もともと理論というものは、一面的なものだ。だから専門なのだ。この意味で、新制度派経済学による説明は一面的な説明だ。また、新制度派経済学による制度的解決も一面的だ。

 ある街である企業が公害を発生させたとしよう。マイナスの外部性である。倫理的には、所有権を明確にし、その責任を企業に帰属させて、その企業に損害賠償させるべきでああろう。そのために、その企業が倒産しても。しかし、新制度派的には、その責任を帰属させるためのコストがあまりにも高い場合には、非倫理的だといわれようと、あいまいにした方がいいという結論にも導かれるのだ。特に、その企業がいま流行っている病気の特効薬を製造している唯一の企業であれば、それを倒産させるコストはあまりにも大きいので、所有権や責任をあいまいにする方が合理的となるかもしれない。

 しかし、このような限界とは別に、新制度派経済学には大きな問題がある。それは、人間を対象とするすべての経験科学的な社会科学の限界でもある。

 新制度派経済学は、制度による解決を展開するので、過去に向かって制度に反応する他律的人間行動を説明する。また、未来に向かって、事前に制度を設計し、制度に反応するような他律的人間を形成することになる。ここに、問題がある。

*他律的人間行動とは、行動の原因が自分以外にある行動。お金や食べものや地位につられて行動すること。

 この学問は、精神なき人間、エートスなき人間、自由意思なき人間を作ってしまうのではないか?そのような人間を形成する資本主義制度、市場制度を作ってしまうのではないか?

 こういった疑問である。

2009年5月 1日 (金)

取引コスト理論への批判と反論

 取引コスト理論をめぐっては、これまでいろんな批判がなされてきた。そのうちの一つが、取引コスト理論では、コストの側面だけが強調され、ベネフィットの側面が無視されているという批判だ。

 確かに、この批判はもっともらしいものであり、多くの人はこの見解を支持するだろう。私もそう思う。しかし、この見解を受けれるためには、ベネフィットの側面も考慮することによって、さらに取引コスト理論の説明力が増加することを示す必要があるのだ。コストの側面だけでしか考慮していない取引コスト理論では説明できない現象を、べンフィットを考慮することによって説明できることを証明する必要があるのだ。

 このことを怠って、ただ論理的にコストがあれば、対称的にベネフィットもあり、それを考慮すべきだというのでは、数学的論理学的であっても、経験科学的ではないのだ。

 ところで、私はある現象を説明するためには、やはり取引コストだけでいいという考えを持っている。それは、企業の垂直的統合という現象だ。

 垂直的統合をめぐっては、それが独占化を進める現象なのかどうかが最大の焦点の一つである。もしこの現象を生産効率を高める現象、ベネフィットを高める現象、効率性を高める現象とみなすならば、それは独占化を進展させる現象として、独占禁止法の適用を促すことになるだろう。

 ところが、ウリアムソンはこの現象には生産効率やベネフィットはないということ、むしろ効率性の観点からすると、個々の部品供給会社が多数の企業と取引できず、ひとつの企業だけに部品供給することになるので、規模の経済性を失うとした。だから、独占禁止法を適用する必要はないということになる。

 ではなぜ垂直統合するのか。それは、ベネフィットはないが、コストが発生するからだというのだ。つまり、企業間で不必要な駆け引きが起こり、不必要な取引コストが異常に高くなるということだ。このコストがあまりにも高い場合には、たとえ生産効率が下がっても、たとえベネフィットを失っても、垂直的に統合することになる。これがウリアムソンの主張である。

 ベイネフィット(B>0)の概念を取り入れると、この現象は説明しにくいかもしれない。

 また、以上のことから、なぜ私が拙著『戦略学』ダイヤモンド社で、実在世界を三つに区別し、その三つの世界に人間は生きていると仮定して議論したほうがいいとしているのか、理解していただきたい。

 近いうちに、このようなキュービックな人間観にもとづく新しい理論の構想をみなさんに紹介したい。私の研究に関心のある人は、すでに『三田商学研究』での論文からその構想に気づいているかもしれませんが・・・・・・

 

2008年1月16日 (水)

取引「コスト」と「費用」の違い NO6

 ウィリアムソンによって展開された「Transaction Cost」 の訳として、「取引コスト」と「取引費用」の二つの訳がある。

 私は、意識的に「取引コスト」という言葉を用いている。意識的にというのは、経済学的な「コスト」と会計学上の「費用」と区別するためだ。つまり、「経済学的なコスト」の場合、「コスト」という言葉を使い、「会計的なコスト」の場合、「費用」という言葉を使うことにしている。

 その違いは何か。

 会計学では、ある製品を生産するのに100万円の費用がかかり、それを無駄なく販売したら150万円の収益が発生した。この場合、会計的に、費用=100万円、収益=150万円、利益=50万円となる。

 しかし、経済学的には、この費用100万円は「投資」であって、必ずしも「コスト=ムダ」ではない。もし100万円使って収益がゼロなら、100万円がムダになったので、それは経済学的な意味で「コスト(ムダ)」となる。さらに、本来最大150万円の収益が得られるはずだったのに得られなかったという点で、150万円の機会コストも発生しているのだ。

 「取引コスト」も経済学的なコストの一つであって、会計学的な「費用」ではなはい。本来、取引上、コストはゼロなのに、ゼロではなく、取引コストが発生する。それは投資ではなく、何も生みださないムダなコストなのだ。それは会計上「費用」として処理されない経済学的なコストなのだ。

 以上のような意味で、私は「取引コスト」という用語を使っている。だから、「取引費用」という言葉を使っている人をみると、この人たちは経済学と会計学の違いを知っているのかな?と訝しく思うことがある。

2007年4月 7日 (土)

新制度派経済学は経済学か、経営学かNo5

 菊澤ゼミ2期生の入ゼミ試験が終わった。今年は、大変、優秀な学生を選抜することができて、良かったと、(いまのところ)思っている。

 4グループに分けて、今年もゼミを進めて行く予定であるが、今年は私が恣意的にグループを決めてしまおうかとたくらんでみた。地域別に分けるか。英語が得意なグループや数学が得意なグループに分けるか。血液型というのもおもしろいかもしれない・・昔、日本軍がやったように・・・・・・

 いろいろと考えてみたが、結局、どうでもよくなった。それは考えにつかれたからではなく、志願書をみていたら、結局、それほど大きな差が無いのではないかという結論になったからである。そういう意味で、良いメンバーが集まったように思える。

 ところで、ここからは真面目な話になるが、この入ゼミをめぐって、このような質問を1期生から受けた。

「菊澤ゼミでは、新制度派経済学を学ぶのだが、これは経営学ではなくて、経済学ではないか?という質問を2年生から受けるのですが、どうしたらいいのでしょうか?」

 実は、この同じことを、私自身が体験しているのだ。つまり、私のことを経営学者ではなく、経済学者だと思っている人がいるのだ。

 私自身は、自分のことを経済学者ではなく、経営学者だと思って研究してきたし、いまでもそう思っている。では、経済学と経営学はどこが違うのか。とくに、ミクロ経済学と経営学はどこが違うのか。

 私の答えは簡単だ。

●経済学、とくにミクロ経済学は均衡論なのだ。パレート均衡、ナッシュ均衡にもとづいて議論や研究を展開して行くのが経済学なのだ。

●これに対して、経営学は非均衡論なのだ。経営学には、パレート均衡やナッシュ均衡は関係ないのだ。より良いとかベターといった観点から選択行動を捕らえて、議論を展開するある意味で非常に大雑把な学問なのだ。

 経営学は、ある意味で、自分だけが儲かればいいという学問だ。特定の企業だけが儲かればいいのだ。だから、経済学的に社会的効率性の観点から、企業は「・・・・すべきだ」ということいわれても困るのだ。何で個別企業が経済全体のことを考えなければならないのか?何で社会的効率性のために、自らの利益追求行動を抑止する必要があるのか?そういった疑問がでるのだ。

 たとえば、社会的効率性の観点からすると、企業は株主だけではなく、債権者による厳しいコーポレート・ガバナンスのもとに置かれる必要があるという経済学的な結論がでるとしよう。このことは、企業が自己資本だけではなく、負債つまり借金をしろということだが、なぜ企業が社会的効率性のために、借金をする必要があるのか?という疑問がでる学問なのだ。

 経営学的な観点からすると、その企業の個別利益追求活動にとって必要なければ、借金をしてあえて債権者による統治を受ける必要はないという見解になるのだ。

●そして、まさにこの点で、経営学と経済学と決定的に異なっているのだ

 では、このような観点からすると、新制度派経済学はどのようになるのか。これが、いがいと厄介で複雑な問題だ。

(1)ウリアムソンの取引コスト理論は、明らかに非均衡論で、しかも無限で連続的ではなく、有限で離散的な選択肢の中から、ベターなものを選択するという点で、明らかに経営学的なのだ。だから、この分野に経済学者はあまり入ってこない。

(2)エージェンシー理論は複雑で、規範的エージェンシー理論は明らかに均衡論なので、経済学であり、それゆえこの分野に多くの経済学者が参加している。しかし、実証的エージェンシー理論は微妙で、一部、非均衡論的でもある。私はこの分野を研究しているので、経営学だと思っている。しかし、部分均衡論的な側面はある。

(3)所有権理論は、基本的には均衡論であるが、一部、非均衡論的な議論もあり、どちらともいえない研究分野である。ただし、オリバー・ハートの所有権理論はナッシュ交渉解にもとづき、均衡論に近い議論を展開しているので、経済学的といえる。だから、多くの経済学者はこの分野に関心を持っている。

 以上を総合すると、新制度派経済学の位置は微妙なのだが、新制度派経済学の象徴は取引コスト理論であり、その点を考慮にいれると、やはり経営学だといえるのではないかと。(しかし、厳密にいうと、コースの取引コスト理論はウイリアムソンと異なり、均衡論的な側面をもっているので、経済学的ともいえる。)

 いま、書いてみて、自分が思っていたほど、自分の立場がすっきりしていないことがわかった。みなさんの考えはどうでしょうか。やはり、私は経済学者なのだろうか。

正直にいって、私は普通の経営学がつまらない。

2006年4月24日 (月)

新制度派登場の歴史 NO1

詳しく知りたい方は、菊澤研宗著『組織の経済学入門ー新制度派経済学アプローチー』有斐閣を、ぜひ購入してください。

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 従来、経済学者は企業組織にはほとんど関心をもたず、市場の役割だけに注意を払ってきた。もし自由に交換取引できる市場があれば、能力のない人は財を売り、能力のある人は財を買い取るので、市場取引によって能力のある人に財が配分され、財は効率的に利用されることになる。このような効率的資源配分システムとしての市場の役割を厳密に説明してきたのが、《新古典派経済学》である。
 しかし、市場を唯一の効率的資源配分システムとして説明するために、新古典派経済学ではこれまで企業は「完全合理的」に「利潤極大化」する経済人として単純化されてきた。つまり、企業はあたかも組織的広がりをもたない物理学の質点のような存在として仮定されてきたのである。このような新古典派的企業観は、以下のように経営学分野と経済学内部から、それぞれ批判を受けることになった。

2. 企業の行動理論
 まず、経営組織論分野から批判してきたのは、サイモン*である。彼は、著書『経営行動』*において、人間は経済学で仮定されているような完全合理的な経済人ではないとし、何よりも人間の情報収集・処理・伝達能力は限定されており、制約された情報の中で意図的に合理的にしか行動できないということ、つまり人間は《限定合理性》に従っているとした。
 Simon しかも、サイモンは、このような制約された合理性に従う人間には行動に至るまでに多様な意思決定プロセスが存在し、どの意思決定プロセスを通して最終的に行動に至るかは、その人間の満足度・要求水準に依存すると考えた。そして、企業行動や人間行動を理解するためには、まず行動に至るまでの意思決定プロセスを明らかにし、そのプロセスを理解する必要があると主張したのである。
 このような考えのもとに、サイモン、サイアート/マーチ*等によって展開されたのが、《企業の行動理論きぎょうのこうどうりろん》である。彼らによると、新古典派の主張に反して、企業は必ずしも利潤極大化していないとする。というのも、企業組織は、株主、労働者、債権者、流通業者、供給者、顧客等の様々な固有の利害をもつ参加者の連合体とみなされ、株主の利害だけを極大化することは不可能だと考えられたからである。何よりも、これら異なる利害をもつ参加者間に発生するコンフリクトをいかにして解決するのか、その意思決定プロセスを記述することによって、企業行動を理解しようとする研究が企業の行動理論なのである。

3. 所有と支配の分離論
 他方、経済学内部から新古典派的企業観を批判してきたのは、企業の制度的側面に関心をもっていたヴェブレン*を中心とする制度派経済学者たちであった。この制度派経済学の流れから、質点としての新古典派的企業観に対して決定的な批判を行ったのは、バーリ/ミーンズ*であった。
 彼らは、著書『近代株式会社と私有財産』*において現代巨大企業では所有と支配が分離しているので、新古典派に反して現代企業は利潤極大化していないと主張した。彼らによると、現代巨大企業では株式は分散し、いかなる株主も企業を十分支配するだけの株式を所有していないとする。何よりも、企業を支配しているのは株式をもたない専門経営者であり、しかも所有者である株主と支配者である経営者の利害は異なるので、経営者は単なる株主の代理人ではないとした。したがって、現代巨大企業は新古典派経済学が仮定しているような単なる質点ではなく、所有と支配が分離した巨大組織であり、しかも所有者と支配者の利害が異なるために企業は利潤極大化できないとしたのである。

4. 経営者支配の企業理論
 このような事実を積極的に取り入れながら展開された一連の企業の経済理論が、ボーモル*、マリス*、そしてウイリアムソン*などによって展開された《経営者支配の企業理論》である。彼らによると、所有と支配の分離によって自由裁量を勝ち取った経営者は株主の忠実な代理人として利潤極大化するのではなく、何らかの制約のもとに経営者自身が望む固有の目的を追求するものと考えられた。
 例えば、ボーモルは経営者の報酬や名声が売上高に関係していることに注目し、企業は維持に必要な最低限の利潤を制約条件として売上高を極大化しているとする売上高極大化論を展開した。また、マリスは、現代企業が利潤極大化ではなく、物的、人的、知的資源の蓄積に関心をもち、成長率を極大化しているとする企業成長率極大化論を展開した。さらに、ウイリアムソンは現代企業の経営者は裁量可能な利益を極大化するという経営者効用極大化論を展開し、例えば経営者は自らの威信を高めるために大規模なスタッフ組織の上に君臨しようとするとした。これらのモデルは、それぞれ異なっているが、いずれも株主の利益を犠牲にして経営者が《効用極大化》するという点で同じであった。

5. 新制度派経済学
 以上のような経営学と経済学の流れから、人間は限定された情報の中で意図的に合理的にしか行動できないという「制約された合理性」の仮定と人間は効用極大化するという「効用極大化」の仮定を受け継いで登場してきたのが《新制度派経済学》である。
 この新しい企業研究の流れは、主に企業をめぐる組織制度の形成や発生を分析しようとしているために、制度派と呼ばれている。しかも、企業の制度的側面に注目した研究は、過去、ヴェブレン等によって展開されているので、この新しい制度論の動きは新制度派経済学と呼ばれているのである。

 しかも、この新制度派経済学は単一の理論ではなく、コース*やウイリアムソンによって展開された取引コスト理論、ジェンセン/メックリング(M. C. Jensen and W. H. Meckling)やファーマ*によって展開されたエージェンシー理論、そしてアルチャン(A.A.Alchian)やデムゼッツ(H, Demsetz)によって展開された所有権理論などの一連の理論から構成されている。

6. 取引コスト理論
 これらのうち、取引コスト理論は、ウイリアムソンの『市場と企業組織』*で展開されているように、制約された合理性と効用極大化(機会主義)という人間仮定のもとに、企業組織は市場の代替的資源配分システムとみなされる。

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 また、エージェンシー理論では、ジェンセン/メックリングの著名な論文"Theory of the Firm: Managerial Behavior, Agency Costs and Ownership Structure(1976)"で示されたように、企業は経営者を中心とする複数のエージェンシー関係から構成される契約の束(ネクサス)とみなされる。

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  さらに、デムゼッツの論文"Toward a Theory of Property Rights(1967)"で指摘されたように, 所有権理論では人々が取引しているのは実はモノそれ自体ではなく所有権であることが強調される。例えば、冷蔵庫を購入した場合、その冷却機能の所有権だけを購入しているのであって、金属物質としての特性を購入しているわけではない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  

 以上のような新制度派経済学*しんせいどはけいざいがくは、組織を経済学的に分析しているので、今日、狭い意味で《組織の経済学》とも呼ばれている。もちろん、広義には組織上の様々な制度をゲーム理論*によって説明しようとする研究も広く組織の経済学と呼ばれており、さらにネルソン/ウインター*たちによって展開された企業組織の歴史的発展プロセスを経済学的に説明しようとする進化経済学も今日組織の経済学と呼ばれている。これら広義の組織の経済学研究が、現代企業理論のフロンティアを形成しているのである。

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