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ミニマ・モラリア

2020年12月 3日 (木)

もののあわれ

日本人の心を表す表現として「もののあわれ」という言葉がある。われわれは、どうしても「あわれ」に気が取られ、これを悲しみという意味に解釈しがちである。本居宣長の研究をしていた小林秀雄によると、それは、ある人の無償の行動をみたとき、思わず「ああ・・・」と発するようなことだという。私は、これを現代風にいえば、ある人の行動をみて、「すてきだな」、と思うことだと解釈する。

2020年10月28日 (水)

責任とは(ミニマ・モラリア)

  最近の政治家は悪事をしても、選挙で選ばれたからと自己正当化する。そして、選挙で落ちることが、その悪事の「責任」をとることになるという。これは、他律的な考えである。それは他人によって責任を取らされるということだ。

 

  責任とは自ら自律的に行動し、その自由な行為に対して、自ら責任を取ることを意味する。他人に取らされるものではない!

  他人に取らされるような責任とは、力学的に動く物質のようなもので、人間的なものではない。

 

2020年8月19日 (水)

アドルノの魅力

 ヘーゲルの観念論的弁証法から、マルクスの唯物論的弁証法、そしてアドルノが否定弁証法を展開する。まだ、ポパーの影響で、私自身は弁証法への疑いは取れない。しかし、このアドルノによる展開は魅力的な流れだ。ここに、アドルノの魅力がある。

 

 テオドール・アドルノは幼いころから天才であった。飛び級で大学に入学している。そのアドルノがなぜ統計学的手法に基づく実証科学の研究を選ばなかったのか。彼は、もともと美学、とくに音楽に興味があり、評論を得意としていた。しかし、アウシュビッツ以後、ユダヤ人である彼は否定弁証法を展開していく。

 

  ポパーは弁証法を論理ではないという。しかし、そうであれば、あの天才アドルノも気が付かないわけがない。アドルノは、カント哲学にも詳しい。なぜアドルはヘーゲル、そして弁証法に進んだのか。謎である。

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アドルノの否定弁証法

一見、異なるもの同志が相互に対立する。やがて対話し、相互に本質が同じことに気づく。こういったコミュニケーションを企業内で望む人が多いかもしれない。こうして、1人、2人、3人、・・100人、・・・と全体化し、本質が現実化しする。その本質とは神であり、精神であり、全体である。これがヘーゲルの弁証法。その弁証法的な展開の前提には同一性が仮定されている。ここから、同じ前提ではないとまともな話ができないという危険な思想になると、アドルノはみる。ナチズム全体主義、反ユダヤ主義。最近、アドルノが私のマイブームである。

 

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2020年8月18日 (火)

リーダーのミニマ・モラリア3

リーダーとしての気品と怨望
             慶応義塾大学 菊澤研宗
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  福沢諭吉といえば、慶応義塾大学の創始者として、そして一万円札の顔としても知られている。この福沢をめぐって、これまでいろんな印象がもたれてきた。「実学」を推進する西洋合理主義者。お金儲けやビジネスを推奨する経済合理主義者。いずれにせよ。何か物質的で経済的なものを求めた人物。そういった印象が強いだろう。
  ところが、福沢が求めたものはまったく逆であった。彼が求めていたのは、人間としての「気品」であった。晩年書かれた「福翁自伝」の最後に、残る余生でやってみたいことは、全国の男女の気品を徐々に高めて、真の文明の名に恥ずかしくないようにすることだと述べている。 
  確かに、福沢は日本が西洋文明に追いつくためには、物理学、技術、そして経済学的知識を習得し、それらを発展させる必要があると考えた。しかし、そのような科学的知識を進歩させるには、何よりも個々人の精神的な自律や自由が必要だと考えた。特に、江戸時代の固定的価値観にもとづく身分制度にとらわれない人間としての自律、品格、そして気品を高めることが重要だとみたのである。
  そして、そのような人物がリーダーにならなければ、日本人の知識は自由に進歩発展しないと考えたのである。それゆえ、どんなに才知や技量があっても、他律的で気品のない人はリーダーとして世に立つべきではないという。何よりも、リーダーには気品が必要なのだと主張する。
  この福沢が最も嫌っていたのは、「怨望(おんぼう)」であった。それは、他人を嫉む心、他人に嫉妬する心である。世の中のほとんどのことがらは、善悪紙一重だという。たとえば、粗野はフランクで率直という意味と紙一重であり、傲慢は勇気と紙一重。ところが、一方的に悪く、生産性がまったくないのが、「怨望」つまり嫉みや嫉妬なのだ。それは、他人を引き下げて自分と平等にする心であり、自分が上がるのではなく他人を不幸にして引き下ろして平均を得ようとする心理である。
  福沢諭吉によると、このような人物は品が悪く、人々の進歩を妨げることになる。それゆえ、リーダーとしては失格なのだ。この怨望をいかにして自己統治できるか。これが、リーダーに求められる条件の一つなのである。

 

 

2020年8月15日 (土)

リーダーのミニマ・モラリア2

グローバル社会のリーダーとフレームワークの神話
慶応義塾大学教授 菊澤研宗

 

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  バブル経済が崩壊しはじめた1991年に、私はニューヨークのマンハッタンにあるニューヨーク大学スターン経営大学院に留学した。当時、米国の経済状態は最悪で、ニューヨークは荒れていた。街のいたるところにホームレスの人たちがいた。
秋学期の大学院の講義が始まる前、夏の短期集中で英会話学校に通った。さすがにニューヨークは国際都市だ。会話学校には、世界中から学生が集まっていた。ロシア人、フランス人、イタリア人、韓国人、中国人、スイス人、スペイン人、イラン人などなど。
私のクラスは、教師がいろんなテーマを与えて議論をさせるものだった。私は英語が得意でないので、会話についていけず、困っていた。もちろん、全員がネイティブではないので、本当に英語がうまいわけではない。

 

  ある日、国際関係に関するテーマがだされた。戦争に関するもので、いつもは大人しいスイス人の女性が激しく議論をしている。驚いた。とくに、ロシア人とは激しい議論をしていた。彼女は英語がうまいわけではないが、スイスがいかに隣国との関係に気を使っているのかが熱く伝わってきた。
  
  当時、私は平和ボケの日本人だったので、それほど隣国を疑う必要はないのではないかと主張した。このとき、彼女の英語はひどかったし、私のリスニング能力もひどかったが、もうそんなことは問題ではなかった。不思議なことに、彼女が熱心に何をいいたいのか、私は彼女の瞳をみてすぐに理解できた。このとき、私は人間というのは共通言語をもたなくても理解できることをはっきりと認識した。

 

   こうした経験をしたので、学会などでときどき有意義な議論をするには、共通の土俵、共通のフレームワークがなければ、有意義な議論などできないと主張する人がいるが、この意見には大反対である。そんなものがなくても議論は十分できるし、相互に理解することもできるし、そうしなければならないのである。というのも、共通のフレームワークがなければ、話しても無駄だという人は、結局、安易に暴力で決着をつけようとするからである。しかし、共通のフレームワークがなければ有意義な議論ができないというのは神話である。それは、暴力を行使する理由には絶対にならない。このことを、グローバル社会に生きるリーダーには、ぜひ心にとどめてほしいものだ。

 

2020年8月14日 (金)

リーダーのミニマ・モラリア1

日本的リーダーの条件としての大和心
慶応義塾大学教授 菊澤研宗

桜の季節である。桜といえば、ソメイヨシノではなく、山桜花。この山桜花にこだわったのは、国学の大家である本居宣長であった。そして、その本居宣長の研究を通して、日本の伝統に迫った人物が、晩年の小林秀雄である。

小林秀雄が本居宣長の研究を通して辿り着いた言葉の一つが「大和心」だった。小林秀雄は、「大和心」という言葉は、昔、絶対に女性が使っていた言葉だと確信していた。そして、この言葉がはじめて登場したのは、学者の妻である赤染衛門の歌であることを突き詰めた。

学者である夫が、当時、子供が生まれて詠んだ歌が、乳もでないような貧相な女が学者の家の乳母になるのは不安だという内容の歌であった。ここで、乳と知識がかけてある。これに対して、妻が「大和心」があれば、乳など出なくても大丈夫と返歌したときに出てきた言葉だという。

当時、最新の科学的知識は中国から入ってきた。そのような科学的知識のことを、当時は「漢心(からごころ)」といった。そして、その反対語が「大和心」だったのである。それは、科学的には説明できないことを意味し、「もののあわれ」を理解する心、人間の誠実さや真摯さなどを理解する心であり、見えないものをみる真心(まごころ)を意味したのである。

今日、人間組織のリーダーの条件として、科学的な分析力や理論的な説明力と応用力が必要だといわれている。確かにそうである。しかし、果たしてそれだけか。小学生6年生の子供も、歳を取った私も論理的に1プラス1は2で同じなのだ。そこに差はまったくない。おそらく私よりもはるかに論理思考のすぐれた若者はたくさんいるだろう。では、歳を取ることに意味はないのか。

リーダーの条件とは、実は経験的に見えるものだけを見る科学的な「漢心」にあるのではなく、誠実さや真摯さといった見えないものまで見通す「大和心」にあるのではないか。そいったリーダーがいれば、悪いことをしてでも業績を高めようとする部下はびくびくし、業績が低くても誠実に正しいことをしようとする部下は生き生きとする組織が形成される。そういったことを考えながら、今年も山桜花を眺め、そして新しい「令和」の時代を迎えたいものだ。

 

 

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