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9)経営学入門

2007年7月 3日 (火)

経営学の基本命題2:経営学入門3

 やっと、本の原稿を提出したので、そのヒマを利用して、経営学入門の続きを久しぶりに書きたいと思います。

経営学の基本命題は、以下の二つだといいました。

(経営学の命題1)所有(株主・資本家)と支配(経営者)の分離(巨大企業)

(経営学の命題2)企業の目的は非利益最大化

 この二つの命題が経営学に存在意義を与えているのだ。これに対して、新古典派経済学の命題は以下のようになり、経営学は経済学から独立できる可能性があるのだ。

(経済学の命題1)所有と支配の一致(企業家企業)

(経済学の命題2)企業の目的は利潤極大化

 以上のような二つの命題を経営学の基本とすると、企業経営をめぐってどのような問題領域が生まれてくるのか。

(1)コーポレート・ガバナンス分野

 所有と支配が分離し、しかも企業経営者は利潤極大化しようとしないので、経営者の不祥事が起こり、コーポレート・ガバナンス問題が生まれてくるのだ。いかにして、企業を統治するのか。このコーポレート・ガバナンス問題が経営学の重要な領域となる。この領域は、企業の社会的責任論(CSR)、コーポレート・ファイナス、企業価値にも関連する。

(2)経営戦略論分野

 所有と支配が分離するような大企業は、株主以外にもたくさんの利害関係者(ステークホルダー)に囲まれることになる。経営学では、利害関係者のことを「環境」と呼ぶが、企業経営者はこのような「環境」に適応することなくして、生存することはできない。いかにして、環境に適応するか。このような戦略論的問題が経営学の重要な領域となる。

(3)経営組織論分野

 所有と支配が分離するような大企業では、所有と支配が一致するような中小企業では発生しなかった組織デザイン問題や組織構造上の様々な問題が発生する。いかにして、このような組織問題を解決するか。このような経営組織論的問題が経営学の重要な領域となる。

 以下、上記の(1)(2)(3)の各論領域へと議論が展開されることになる。昔は、管理会計分野(財務分析+損益分岐点など)なども経営学の一領域だったのだが、最近は経営学者が勉強不足のせいか、排除される傾向があるのは残念。

続く

2007年4月22日 (日)

経営学の基本命題1:経営学入門(2) 

 経営学を学問として語るとき、最も問題となるのは、経済学との関係だ。とくに、ミクロ経済学との関係だ。今日、ミクロ経済学(新古典派経済学)も経営学もかなり発展したので、その境界を示すのは難しくなっている。

 しかし、その違いを語ることが、経営学の存在意義を示すことになるのだ。方法論的な違いは、均衡理論か非均衡理論かという点にあり、この点については前に説明したので、参考にしてほしい。今回は、研究対象の違いついて説明してみたい。この分野は「企業論」と呼ばれる分野の一つだ。

 もしミクロ経済学が新古典派経済学であるならば、ミクロ経済学理論が対象としている企業は中小企業か独裁的な同族経営企業であろう。それは、お金を出している人と経営している人と管理している人が同じ企業である。

   お金を出している人(資本家)=経営者=管理者

 しかも、経済学では、人間は完全に合理的なので、企業はたくさんの人々からなっているのだが、資本家=経営者=管理者が、従業員を完全にコントロールでき、自分の意図通りに従業員を働かせることができる。

 したがって、企業行動は資本家かつ経営者かつ管理者の行動と同じであり、その目的は資本家の利益最大化としてもいいことになるのだ。

  企業行動⇒資本家(経営者(管理者))行動⇒資本家の利益最大化行動

 こうして、ミクロ経済学では、企業行動を高校でならう数学の最大化問題に置き換えることができるのだ。ノベール経済学賞を受賞したサミュエルソンが、かつて経済学のすべての問題は最大化・最小化の問題に還元できると豪語したことがあるが、確かに経済学は美しい微分積分の世界として20世紀末まで発展してきたのである。

 数学の世界で一流になれない学者が経済学分野に流れ込み、経済学のエリートたちは二流の数学者をひっしに目指して、数学を異常なくらい勉強したのだ。

Imga0152_r1 しかし、現実の企業はこのような経済学の発展とは異なり、必ずしも美しい世界ではなかった。そのことに、早い時期に気づいたのは、米国のバーリ=ミーンズだ。

 彼らは、現実の企業を支配しているのは資本家ではなく、お金を出資していない専門経営者だといいだしたのだ。つまり、経営者は資本家(株主)の忠実な代理人ではないと言いだしたのだ。そして、彼らのもっと強烈なメッセイジはこうだ。経営者は利益を最大化していないし、できない、といい出したのだ。

(命題1)所有(株主・資本家)と支配(経営者)の分離

(命題2)企業の目的は非利益最大化

この二つの命題が経営学に存在意義を与えているのだ。

そして、ミクロ経済学の研究対象とは異なるかもしれない経営学の研究対象なのだ。

疲れたので・・・・・・休憩

2007年4月11日 (水)

経営学の学問的構造について、経営学入門(1)

 これから、ときどき経営学という学問について、考えてみたい。

まず、本日は、経営学という学問の体系について考えてみたい。

 私の考えでは、最近の日本の経営学の入門書をみていると、経営学という学問の体系性が非常に分かりにくくなっているように思われる。これは、経営学を学ぶ人にとって不幸なことだ。

 これは私の偏見かもしれないが、最近の経営学の教科書は「組織論」「戦略論」に傾きすぎという印象だ。数学が嫌いな文系の学問として、行き着いた経営学の姿かもしれない。

 そして、もっと恐ろしいことに、この組織論や戦略論中心の経営学が米国流の経営学だと思っている人がいることだ。これは、間違いだ。このようなことを、米国で勉強したければ、社会学部にいかなければならない。

 さて、私が考える経営学の体系は、二つの柱からなっている。

(1)企業経営の人間に関連する分野=経営戦略論、経営組織論、人事労務論、マーケティング

(2)企業経営の価値に関する分野=企業論、企業形態論、会計学、企業ファイナス

なぜこのように区別するのかというと、企業は基本的にこのような二つの側面をもっているからである。

たとえば、ある人に「この企業は大きいと思いますか」という質問をしたとしよう。ある人は、「その企業は従業員の人数が多いので、大きいと思う」という人は、組織論的観点から、企業を見ているのである。そして、従業員の配分の仕方を研究するのが、「組織形態論」である。

別の人は「その企業は資本金が少ないので、小さいと思う」というかもしれない。その人は、企業経営の価値の観点から、企業を見ているのである。そして、どのように資金を集めるか、その仕方、形態(株式会社か合名、合資か)を研究するのか「企業形態論」なのだ。

●ときどき「組織形態論」と「企業形態論」を同じだとする学生がいるが、まったくの誤解だ。

同じ対象をみているにもかかわらず、企業は基本的に二つの側面があると見ていいだろう。

問題は、これら二つの側面が必ずしも一致しないことだ。ある企業は、従業員は多いが、資本金小さいかもしれない。逆に、別の企業は、従業員は少ないが、資本金は大きいかもしれない。

さらに、問題なのは、(1)の側面で、従業員にインタヴューして「満足している」と答えていても、(2)の側面で企業が赤字や資金不足だと、経営はうまくいかないのだ。(かつての航空会社)

逆に、(2)の側面で、黒字で資金も豊富であったとしても、(1)の側面で従業員が不満だらけだと、やはりだめな企業経営なのだ。(某***英会話学校)

したがって、これら二つの側面を一致させたり、相互に調整することが経営にとって非常に重要なのだ。だから、(1)だけを経営学とするのは、片手落ちだ。やはり、(2)の側面も経営学として少しは学んでおく必要があるだろう。

以上のように、経営学は二つの柱からなっていると考えていい。日本では経営学を学ぶ数学嫌いの文系学生や数学嫌いな経営学者が多くなったので、日本では(2)の分野が分離されたり、弱くなったのではないか?と思ったりする。

アメリカでは、逆、むしろ(2)こそが金儲けになるので、みんなこちらを中心にTop20,30のビジネス・スクールで学ぶのだ。米国で組織論の講義なんて2,3科目(経営行動論)しかないのだ。(ただしハーバード・ビジネス・スクールだけはケース中心で例外)

その点、日本の公認会計士の「経営学」試験は良くできていて、(1)と(2)をバランスよく出題しているのは、救われる思いだ。

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