リーダーのミニマ・モラリア2
グローバル社会のリーダーとフレームワークの神話
慶応義塾大学教授 菊澤研宗
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バブル経済が崩壊しはじめた1991年に、私はニューヨークのマンハッタンにあるニューヨーク大学スターン経営大学院に留学した。当時、米国の経済状態は最悪で、ニューヨークは荒れていた。街のいたるところにホームレスの人たちがいた。
秋学期の大学院の講義が始まる前、夏の短期集中で英会話学校に通った。さすがにニューヨークは国際都市だ。会話学校には、世界中から学生が集まっていた。ロシア人、フランス人、イタリア人、韓国人、中国人、スイス人、スペイン人、イラン人などなど。
私のクラスは、教師がいろんなテーマを与えて議論をさせるものだった。私は英語が得意でないので、会話についていけず、困っていた。もちろん、全員がネイティブではないので、本当に英語がうまいわけではない。
ある日、国際関係に関するテーマがだされた。戦争に関するもので、いつもは大人しいスイス人の女性が激しく議論をしている。驚いた。とくに、ロシア人とは激しい議論をしていた。彼女は英語がうまいわけではないが、スイスがいかに隣国との関係に気を使っているのかが熱く伝わってきた。
当時、私は平和ボケの日本人だったので、それほど隣国を疑う必要はないのではないかと主張した。このとき、彼女の英語はひどかったし、私のリスニング能力もひどかったが、もうそんなことは問題ではなかった。不思議なことに、彼女が熱心に何をいいたいのか、私は彼女の瞳をみてすぐに理解できた。このとき、私は人間というのは共通言語をもたなくても理解できることをはっきりと認識した。
こうした経験をしたので、学会などでときどき有意義な議論をするには、共通の土俵、共通のフレームワークがなければ、有意義な議論などできないと主張する人がいるが、この意見には大反対である。そんなものがなくても議論は十分できるし、相互に理解することもできるし、そうしなければならないのである。というのも、共通のフレームワークがなければ、話しても無駄だという人は、結局、安易に暴力で決着をつけようとするからである。しかし、共通のフレームワークがなければ有意義な議論ができないというのは神話である。それは、暴力を行使する理由には絶対にならない。このことを、グローバル社会に生きるリーダーには、ぜひ心にとどめてほしいものだ。
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