価値判断の重要さと難しさ
2、3,4月に行う企業人向けの講演のパワポを作成して、ふと思ったこと。
価値判断とは、好きか嫌いかを述べること。正しいかどうかを述べること。
結局、自分の価値観にもとづいて好き嫌いを述べればいいのだから、価値判断なんて簡単だと思うかもしれない。単に、わがままをいっていればいいと思うかもしれない。これは、間違いである。「価値判断」は難しい。
好き嫌いを言っていればいいという程度の判断は、大抵、背後には損得計算があり、それにもとづいているのであって、固有の価値観が背後にあるわけではない。あの会社は給与が高いので好きだという判断にもとづく行動は価値判断ではない。それは、単なる動物的な刺激反応行為だ。金に釣られて動いているだけだ。
本当の価値判断は極めて個人的なものなので、それにもとづく行動には責任を伴うものだ。選択した会社が危機になっても逃げないという選択だ。少し賢い人間は責任を取りたくないので、どうしても価値判断を避けたがる。責任を取るのが怖いのだ。
カントは、こういった人間のことを「未成年」といった。「あえて価値判断しろ!」これをカントは「啓蒙」といった。
では、なぜそんな価値判断が必要なのか。世の中、それを求めてくる問題が意外に多いからだ。何が儲かるのか。どうすれば儲かるのか。何が売れるのか。そんなことはわからない。最後は、価値判断なのだ。そして、決定的なのは、損得計算で(打算で)行動する人間や組織を、無償で助けてくれる人はいないということだ。
五輪のエンブレム問題、結局、誰の責任だったのか。わからなかった。どれがいいのか、わからないものだ。結局、だれも価値判断しないで、関係者は損得計算で刺激反応的に動物のように行動していたのだろう。
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