価値判断の重要性
1970年代以降の教育で誤った教育が2点。
(1)米国人のような個人主義にもとづいて行動べき。
ほとんどの教師も若者もこれを「わがまま」と間違えた。
(2)知識人は、好きか嫌いかといった価値判断をしてはならない。
これによって、勉強はできるが、何か正しくて何が悪いのかという判断ができない若者が増大した。そして、いじめ問題へと。
(2)に関して、インチキ知識人は、何が正しいのかは、個人によって異なるので、議論できないという。こういった考えが、最後の手段として暴力を持ち出すのだ。
私は人間として、ともに議論すれば何が正しいか議論でき、相互に接近してくると思う。しかし、そんなことよりも、世の中には、われわれの価値判断を必要する問題が存在のだ。
「海で溺れかけている自分の子供を助けにいくのか、どうか」「子供を助けに行って亡くなる親を馬鹿だというのか」
それが、突然、自分の目の前に現れた時に、狼狽しないように、われわれは勇気をもって価値判断する練習をしておかなければならないのだ。
価値判断こそが、機械ではなく、人間としての人間の存在証明なのだ。
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