カントの理論理性と実践理性について
カントは、人間の理性を理論理性と実践理性に分けた。理論理性は、因果的世界を説明し、認識し、行動する理性である。その理性は、なぜそのような現象が起こるのか?なぜなぜなぜ・・・を追求理論であり、損得計算する理性でもある。
これに対して、実践理性は自らはじめる能力であり、自律的な理性であり、自由意志でもある。
しかし、そのような実践理性や自由など存在しない。すべての行動は用理論(理論理性で説明できるという人が意外に多い。つまり、なんでも科学的に因果論で説明できるという人がいる。そもそも実践理性に従う行為などあるのか。自由な意志にもとづく行為があるのか?人間行動の背後には常に原因があり、それゆえ人間は他律的だというもの。
これは、中途半端に賢い人のお決まりの議論。とくに、経済学を学んだばかりの人が展開する議論です。物事は、なんでも因果論的に説明できるというものです。
ところが、原理的な問題にもどって考えてほしいのですが、まずカントはそこまでバカではない点。彼は、因果論の典型であるニュートン理論の構造を良く知っていました。
次のように考えると、やはり実践理性は存在し、かつ必要なのだということがわかる。
世の中には、事実問題と価値問題があります。
(1)事実問題は「実際にあるかないか」「この会社は利益をあげているかどうか」「効率的かどうか」「損をしているか得しているかどうか」この問題に関わるのが、理論理性です。
(2)価値問題「日本が好きか嫌いか、日本を好きなんことが正しいかどうか」「慶応義塾大学が好きかか嫌いか、それを好むことが正しいのかどうか」「人をだましてまで利益を得ることは正しいかどうか」「個人の意見よりも全体の意見方が正しいかどうか」この価値観に関わるのが、実践理性です。
(1)と(2)を区別しないで、すべて損得計算して問題が解けるとは思いません。いや、どちらも損得計算して結論を無理やり出せますが(カントはこれを理論理性の誤った使用というのですが)、その計算は唯一絶対的で客観的ではありません。
確かに、(1)は客観的損得計算(個人の責任なし)が可能かもしれません、しかし、(2)は個人的主観的損得計算(個人の責任あり)となるでしょう。
(2)後者の価値問題を解くのに、みんな同じ損得計算をするとは限らない。それぞれ主観的に計算する、どれが正しいかわからない(アンチノミー)。自分の計算が正しいと信じ、それに従うかどうかは、最終的に自分自身の。決断となるでしょう。それは、実践理性の問題なのです。外部で起こってることではなく、自分の問題、自分自身の問題なのです。
私の経験では、人生は(1)の問題より(2)の問題の方が多く、中途半端に賢い人は(2)の問題に対して、見て見ぬふりをして避けるのです。これは責任を伴う勇気ある決断が必要だから。啓蒙されていないので(勇気がないので)・・・主観的な損得計算しては、この結果は果たして正しいのかどうか、不安になったり、うろたえたりしたり、じたばたして、決断ができず、みじめな姿だけをさらします。こうして、多くの中途半端に優秀な人は、一流になれない。
事実問題も価値問題も、理論理性で解けると思っている人、あるいは解こうとしている人のことを、カントは子供だといった。価値問題に対しては、責任ある自由な決断(選択)をする必要がある。そして、実践理性を使うには、勇気がいる。できれば、すべてを他人ごとのように科学的に済ませたい。しかし、そうはいかない。向うから、決断を迫ってくる状況が必ずくる。
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