ヴェーバーの「プロ倫」には学者としての夢がある。
ヴェーバーの「プロ倫」には、学者としての夢を感じる。壮大なストーリー。その物語が面白い。そして、その物語が、単なる物語ではなく、事実なのだということを社会科学者として正当化、論証、しくていく。
経営学では、経営理念研究、企業倫理研究、社会的責任論などがあるが、このヴェーバーの「プロ倫」を正面から取り上げて議論を展開する研究をほとんとみたことがない。
すぐに利益との相関関係を実証したくなる。それが現代の研究だ。ヴェーバーは嘆くだろう。学者も目的合理化し、目的と手段を顚倒させる。
はじめは、教会に頼って救済を確信する他律的な人たちが、宗教改革によって教会の助けが排除される。こうして、神と自分との対話に迫られる。つまり、自律を促される。そして、救済の自己確信をえるために、自律的に質素・倹約、禁欲的な行動を行うことになる。それが、意図せざる帰結として資本を蓄積し、資本主義を形成していくことになる。こうして、プロ倫は資本主義の精神となった。これが、ヴェーバーの資本主義成立のプロセスだ。
しかし、本当の面白さは、ここからだ。この自律的行為がやがて他律的行動に変貌する点だ。宗教的な倫理が質素・倹約的行動をもたらし、お金を増加されたが、時代とともに、逆になった。お金を稼ぐために、質素・倹約的行動をするようになった。この逆転こそがおもしろいのだ。
創業者が経営理念を掲げて、従業員がまじめに働いて、結果的に会社が大きくなった。2代目は、理念を忘れ、会社を拡大するために、従業員に働けと叫びだす。こうして失敗する企業。
学問の真理、深さを目指して、研究者になった。そのために、禁欲的な学問生活を行い、その結果、良い論文がでてきた。しかし、時間とともに、論文を書くために、研究するようになる。
1、2年生のときに遊び過ぎた。その反省から、ゼミに入って自分を鍛えなおしたいと思ってゼミにはいり、禁欲的に勉強する。しかし、時間とともに、就職活動のために、ゼミに参加するようになる。
これすべて、ヴェーバーの「プロ倫」ではないか?
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