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新制度派経済学と限定合理アプローチの本

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2012年2月 2日 (木)

科学と哲学について

 ここ数年、私の本や論文、新制度派経済学に基づく経験科学的な議論から、カントやドラッカーといった哲学的議論をすることが多くなった。このような私の研究に関して、以下のような反応がある。

●せっかく新制度派経済学で分析してきたのに、なぜ最後は非合理的な哲学的議論を持ち出すのか。

こういった人は、議論がおおざっぱなのだ。緻密な分析が苦手な人か、論理性が欠けているのだ。

なんでもかんでも経験科学によって解明できるという迷信を信じた悪しき科学主義である。そのような考えは、とっくの前に死んでいる。

●人間は真理を確定できないのだ。

いま、真理を言明と実在の一致だとする。そのとき、その言明は真理だとしよう。しかし、人間は言明が実在と一致することを証明できないのだ。たとえば、「机」という言葉と机という実在が一対一に対応していることを証明するには、言葉が必要となる。しかし、その言葉が真理かどうかを正当化する必要があるので、また言葉が必要になる。・・・・・こうして無限後退するだけで、真理は確定できない。

●ハイゼンベルクの不確定性原理

科学的予測というものを完全に行うには、ある粒子の「位置」と「速度」を知る必要がある。そのためには、アルファ線だったかガンマー線を粒子に当てその反応からその位置と速度を測定する。しかし、そこには衝突があるので、位置と速度に必ず誤差がでるのだ。そして、ある一定の誤差を小さくすることはできないことを証明したのがハイゼンベルクの不確定性原理なのだ。

以上のことを知っている人は、現在、人間が保有している知識はいずれも暫定的なものであって、真理ではないということを知っている。われわれの知識は、いずれも不確実なのだ。大胆にいえば、すべて哲学的で非科学的だといってもいいかもしれない。

以上のことから、人間は経験科学的な真理を得ることはできないのだ。そのことは、常に非科学的な哲学的議論を展開することも許されるということなのだ。

もちろん、経験科学の名のもとに暫定的な知識だけを追求することも許されるだろう。しかし、それと補完的に哲学的議論を展開することも許されるのだ。

科学はすべてを説明してきたのではない。昔、哲学者が語っていたほんの一部だけを説明してきたのであり、むしろ科学はわからない部分を捨ててきたのである。

こういった議論を理解できる人は、私がなぜ経験科学だけではなく、哲学の必要性を主張しているかはいくぶんわかるのではないかと思う。

経営哲学学会: 経営哲学の授業

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11)ポパーとカントの哲学」カテゴリの記事

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