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2011年3月

2011年3月30日 (水)

震災復興政策は戦略学で展開した多元的立体的アプローチ(CGS)をお願いしたい。

原発事故のことばかり書いてきたが、震災復興政策について、ひとことコメントしたい。

 宣伝のように、本当に、申し訳ないのだが、ちょうど拙著『戦略学』ダイヤモンド社が増刷されることになったので、思い出した。

今後、震災復興をめぐって経済政策(もちろん別の政策もある)が展開されるだろう。私は、経営学者として、戦略論的なアプローチをお願いしたい。それは、多元論的なアプローチだ。

それは、拙著『戦略学』や『戦略の不条理』を読んでもらえると、わかるのだが、次の三つの世界観にもとづく多元的な立体戦略だ。ピカソのキュビズムをイメージにして、キュービック・グランド・ストラテジー(CGS)と名付けた。

(1)物理的世界:肉体、物質の世界。五感で存在を感じられる世界。

(2)心理的世界:感情、心情、本を読んでいる状態。考えている状態。暗黙知の世界

(3)知性的世界(理論内容の世界):本の内容、理論の内容、知識、情報、理念、価値、人間の知性によってその存在が理解できる世界。

これから、震災にあわれた方々を救済するには、これら三つの世界のアプローチが必要だ。

(1)物資、食事、仮設住宅、資金などなどが必要だ。

(2)心のケア、信頼感、家族愛など、友達関係、後で出てくる問題だ。

(3)希望に満ちた理念、共通して理解できる先行きの展望、共有できる考え方などなど、いまは思いつかないが・・・・

われわれ人間を取り巻く世界はこれら三つの世界であり、これらは相互作用しているのだ。相互作用して相互に成長しているのだ。

この三つのアプローチのどれ一つ欠けても戦略は合理的に失敗する。政府は(1)物質的世界だけをアプローチしてもだめなのだ。(2)と(3)の世界もアプローチしないと、(1)の世界で合理的に政策を展開しても、復興はしないのだ。

むしろ、三つの世界には階層があり、特に知性的世界がもっとも高次なのだ。この知性的世界へのアプローチは非常に重要なものとなる。それが、実は心理的世界や物理的世界での復興を生み出すのだ。物理的世界でのアプロ-チだけでは、心理的世界と知性的世界での変化は期待できないのだ。

復興戦略の不条理に陥らないようにお願いしたい。

2011年3月27日 (日)

いま原発事故で起こっているのは組織の不条理と改革の不条理だ

 いろんな方から、いろんなコメントをもらっている。多くの方々は、いま原発で起こっているのは、私が書いた本『なぜ改革は合理的に失敗するのか』、『組織の不条理』、『組織は合理的に失敗する』に書いてあることだということだ。

 私自身も、実はそう思っている。実は、私はこれらの研究との関係で、新潟県の柏崎の原発にいったことがある。そして、そこで、地域住民の方々、東電、保安院の方々と、「組織は合理的に失敗する」というテーマでお話したことがあるのだ。

その要点は簡単だ。

 完全に合理的など絶対にない。完全安全性など存在しない。たとえ完全安全性が存在しても、それを実現するのにコストがかかるので、完全安全性(コスト無限)と経済合理性(不完全な安全性)とは一致しないのだ。そして、残念ながら、人間は完全安全性ではなく、経済合理性を選択してしまうという不条理に陥るのだ。これだ。

なぜか。

 人間はカントの理論理性に従うからだ。人間はヴェーバーの目的合理的に行動するからだ。人間は、計算合理性に従うからであり、損得計算に従うからだ。

 こうして、不条理が起こる。

 今回の福島原発事故をめぐって、ネットでも、週刊誌がいろんな記事を書いており、いろいろ言いたいこともあるが、また事実かどうかわからない。ここは少し冷静に見極めたい。

 しかし、おそらく上記の不条理が原発をめぐる直接的な利害関係者の間に起こっているのではないかと推測はしている。

2011年3月23日 (水)

単に美談を披露しているのはなく、むしろ実践理性の存在に感動している。

 これまで、決死の行動をしている自衛隊、消防隊、現場の社員の人々について書いてきた。おそらく、表面しかみていない人は、私が美談のオンパレードを書いていると思ったかもしれない。

 しかし、私が今回の震災や事故で見せつけられているのは、やはり人間には「実践理性」があるんだという点だ。そして、この実践理性の行使こそ、合理的な失敗を避けうるカギなのだ。

 カントによると、人間には二つの理性がある。

(1)理論理性=「Aならばbである」という因果法則を認識し、それに従って行動する理性。損得計算する計算理性だ。このような理性に従うことをヴェーバーは「目的合理性」と呼んだ。というのも、「Aならばbである」という因果命題は、「bのためにAできる」という目的論的命題に変換できるからである。

このような理性に従う人間は、他律的なのだ。常に、Aならばという条件付きで行動する他律的な人間だ。あるいは、bという外の目的のために行動する他律的な人だ。お金のために・・・・、名声のために、・・・、罰則制度があるために・・・・、それは、力学的に動く機械と同じであり、棒でたたこうとすると、逃げる動物と同じだ。それゆえ、このような行動だけをする人間は実は人間的であはない。これがカントの考えだ。

こういった理論理性にだけしたがって行動する人間は、合理的に失敗する。このことを私は、何度も述べてきたのだ。

この不条理を回避するには、もうひとつの理性が必要なのだ。それが、実践理性だ。

(2)実践理性=「Aすべし」という定言命法にしたがって、自ら自律的に行為させる理性であり、自由意志である。このような理性に従う行為をヴェーバーは「価値合理的」と呼んだ。計算合理的に失敗しないために、この自律的な理性が必要なのだ。無条件の行為だ。死を恐れぬ、決死の行為だ。お金のためとか、名声のためとか、もし行かなければ、だれかに処分されるから・・・といった他律的な行動とはまったく異なるのだ。

そんな実践理性など人間に存在するのか?お金や名声にとらわれない行為なんてないのではないか?という人は多いだろう。

しかし、私は今回の震災や事故をめぐる様々な人間の行為をみて、やはりそのような理性はある、実践理性は存在すると確信した。

もっと詳しく知りたい人がいれば、宣伝して申し訳ないが、新著『なぜ改革は合理的に失敗するのか』朝日新聞社の最後の章を読んでほしい。カント哲学に依拠して書いたつもりである。

消防隊の自律的な行為に感謝する

いま、決死隊として注目されている消防隊をめぐって、政府がやらないと処分するといったとか、いわなかったとかでもめている。

http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jcast-91044/1.htm

確かに、この問題は重要な問題だ。

しかし、この問題をあまりにも強調すると、結局、処分を恐れて消防隊は消火に向かったのかという他律的な印象を与えてしまう。それは、消防隊員に対して、あまりにも失礼だ。

そうではないのだ。処分されよとされまいが、やはり彼らは命をかけて自律的に向かっていったのだ。日本のために、日本国民のために、自らの職業のプライドに懸けて、立ち向かったのだ。

本当に行くのがいやな隊員は処分されても行かないものだ。

決死の覚悟で立ち向かった消防隊員にとっては、処分などどうでもよかったのだと思う。その勇気と自分の職業に対する自負心(プライド)に、わたしはただただ畏敬の念をいだくだけだ。

この大事件によって、私の新著『なぜ改革は合理的に失敗するのか』も吹っ飛んでしまった。

2011年3月16日 (水)

学会も卒業式もみんななくなった。しかし、日本人として誇りにも思うこともある。

 この大震災で、学会も中止した。そして、卒業式も中止になった。みんななくなった。しかし、日本人として誇りに思うのは、このような大惨事になっても、日本人は略奪を行わず、秩序とルールを守っている点だ。まさに、その点を海外は高く評価してくれている点だ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110316-00000135-jij-int

 私自身もテレビを見ていると、改めて東北の方々の優しさや強さを見せつけられている。1月に仙台に講演でいった。その数日前に講演で神戸にいったのだが、神戸よりも活気があった。

 また、みんなで復興したいものだ。

もう誰が悪いとか言っている場合ではない

 東電の福島原発をめぐって、東電の対応が遅いとか、政府主導による対応がおかしいとか、いろいろと問題が投げかけられている。しかし、だれもがこれまで経験したこともないことであり、また理論的な予測や推測を超えた事態であることは間違いない。

 相互に怒鳴りあったり、けなし合ったりするのではなく、いまはとにかく目標は同じなのだ。問題の解決だ。だれも事態を悪化させるために、画策なんかしていない。もちろん、悪意をもって東電は行動しているとは思えない。

 むしろ、東電の社員も、戦争のように志願兵として現場に向かっている。この点は、認めるべきだ。

「使命感持って行く」=電力会社社員、福島へ―定年前に自ら志願

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110316-00000018-jij-soci

2011年3月15日 (火)

3月19日経営哲学学会関東部会の延期のお知らせ

―経営哲学学会関東部会の延期について-

このブログで、経営哲学学会関東部会を下記のとおり行う予定でしたが、

東北地方太平洋沖地災の影響により、開催を延期することを決定しました。

ご迷惑をおかけします。

新しい開催日については、またお知らせします。

                                                                      

(以下の関東部会を延期します)                                     日時:3月19日土曜日13時から 

場所:慶應義塾大学三田校舎研究室棟AB会議室 

Ⅰ)講演「経営の“学”を考える」13時から 

講演者:平田 光弘(一橋大学名誉教授)

司 会:三井 泉(日本大学) 

Ⅱ)若手研究者によるシンポジュム:14時から

―企業をめぐる三つの見方―

司    会:三橋 平(慶應義塾大学)

コメンテータ:山中 伸彦(立教大学)

コメンテータ:石井 康彦(高千穂大学)

●報告者:ミン・ジョンウォン(慶應義塾大学大学院)

「埋め込み理論アプローチ-組織間ネットワーク埋め込みと仲介ポジショ

ン・ダイナミクス」 

●報告者:上西聡子(神戸大学大学院)

「社会学的新制度派アプローチ-技術標準をてこにした企業戦略の差異化― 携帯電話産業で生じたガラパゴス化を事例に」

●報告者:橋本 倫明(慶應義塾大学大学院)

「経済学的新制度派アプローチ-企業境界をめぐる行動取引コスト理論分析」

Ⅲ)懇親会 AB会議室 18時から    

●全体司会進行役 榊原研互

以上

2011年3月14日 (月)

原発関係者のみなさん、がんばれ!

地震、津波、そしていまは原発だ。

おそらく、いま福島原発の現場にいる人々は、日本を救うために命を賭けて戦っていると思う。

 私は、柏崎の発電所にいったことがある。そのことから、想像すると、いま現場には福島県の地元社員たちが対応しているのではないか?また、私は防衛大で教えていたのだが、自衛官たちも寝ないで、対応しているんだろう。

1号機が爆破し、3号機、そしていま2号機が問題となっている。そのたびに、負傷者がでているようだ。おそらく、現場では、手動で微調整しているのではなかいと思う。まさに、「日本の運命、この一戦にあり」という心境だろう。

しかも、不眠の作業だろう。東電職員、関係企業の職員、政府関係者、そして自衛官など、まさに命をかけて戦っているのだろう。考えただけでも、心か痛む。事態が静かに終息するようい祈りたい。頑張ってほしい。日本のために。世界のために。

Z旗=この(Z)後にはもうない!

クリックすると新しいウィンドウで開きます

2011年3月12日 (土)

2011年3月12日に予定していた合同研究会を中止します。

関係者のみなさんへ

菊澤です。3月12日14時から慶應大学研究室棟で予定していた研究会を中止します。私自身帰宅できず、大学に泊まり、これから帰宅します。

2011年3月 9日 (水)

新著『なぜ改革は合理的に失敗するのか』発売予定

新著『なぜ改革は合理的に失敗するのか』の予約販売がアマゾンで可能になりました。3月18日に発売予定です。

 この本では、企業、社会、政治、歴史をめぐる改革の不条理現象について分析している。これまで、企業の不条理を中心に分析してきましたが、それを超えて、この本では分析の対象を広く拡張しています。

 多くの人々は、いま改革が必ようなのだということは知っているのです。しかし、それにもかかわらず、改革ができないのか、あるいは改悪してしまうのか。それは、決して人間が非合理的だからではなく、合理的に改革は失敗する場合が多いのです。

 このような改革の不条理について、より明確に分析し、その対策について説明しているのが本書です。関心のある方はぜひご購入お願いしたい。

2011年3月 7日 (月)

海老蔵さんは良い人かも

私は、いま体調が悪くて寝込んでいる。やっと、仕事から少し解放され、自分の研究ができると思ったやさきに、疲れがでたのか、熱がでてしまった。今少し楽になっているが、まだだめだ。

さて、私は、ほとんど関心も情報もないのだが、テレビで時々見たり、今回の事件だったりして、海老蔵さんがあまりすきなタイプではなかった。

しかし、今日、ネットで、隠し子がいるという記事をみて、この人は良い人だと思ってしまった。すべて認め、時々会っているということだが、私は単純なので、彼に対する印象が変わった。

http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/rl-20110307-6144/1.htm

2011年3月 5日 (土)

学問の自由と大学の自由

 学問の自由と大学の自由は必ずしも一致しない。もちろん、大学に求められているのは、学問の自由だ。

 大学という組織や制度は社会的な存在なので、その点は自由ではない。社会の中の一器官であり、無制約の自由など許されない。(組織として自由だったのは、昔の軍隊ぐらいだろう。何せ組織の内部に警察がいて、しかも軍事裁判までできたからだ。でも大抵甘かったり、偏見だらけだったりしたが・・・むしろそれが問題だったのだが)

 しかし、学問の自由は別だ。いくら政府からお金をもらっているからといって政府をほめたたえるような研究しかできないような大学は大学として失格だと思う。この点は、特に経済学者や経営学者は用心しなければならない。特に、経営学者は経営者をほめる癖があるからだ。私自身もいつも反省している。

 昔、私は防衛大学校に10年以上も務めていたが、面白い経験をした。防衛大は防衛省の大学で、文科省の管轄ではない。特別な大学だ。正確には、大学校だ。当然、この大学の先生は防衛省に都合の悪いことはいってはいけないような感じがするだろう。

 しかし、当時の防衛庁や防衛大の中の雰囲気はそうではなかった。リベラルだった。多くの先生は、やはり学問の自由を主張したし、実践していたように思う。そこの点が、防衛大学校と防衛研究所は違うのだともいっていた。

 また、戦後の反省もあったのかもしれない。そんな中で、いつも帰り道に戸部先生などともいろんな自由な議論をしたことも、いまとなっては懐かしい思い出だ。いまも、この伝統が守られているといいのだが・・・

国立大と私立大の違い

 日本では、国立大と私立大がある。その違いは何だろうか。国立大学は、その資金を国の税金を基にしている大学であり、私立大学はその資金を学生は支払う学費で運営している大学だと思っている人が多いと思う。

 定義としてはそうなのかもしれない。

 しかし、実際には異なっている。日本の国立大は学生から学費をとっている。他方、日本の私立大はかなりの額の補助金を国からもらっていて、それなにし運営することは不可能である。

 このような事実のもとでは、何が国立大で何か私立大かわからないのだ。これは日本独特の世界なのかもしれない。すべての大学は文科省のもとにコントロールされているのだ。

 このような状態は正しいことでかつ効率的なことか?いずれにせよ。この状態を変化させるには膨大なコストがかかることだけは確かなので、いまだこの状態にいることが合理的になっているのだろう。これも、不条理な現象かもしれない。

効率性(事実問題)と正当性(価値問題)の違い

 より効率的なことは正しいことであってほしい。あるいは正しいことは効率的であってほしい。しかし、実際には、効率的なことは正しいこととはかぎらない。同様に、正しいことは効率的とはかぎらない。

 たとえば、ある人が100円の脱税をしていることが明らかになったとする。その人は隠れており、その人を探すには、2000万円かかるとする。あなたはどうするか?

(1)あくまでも納税の義務を守らせるために、あるいは平等を追求するために、捜査の専門家に頼むと2000万のコストがかかる。自分たちやると、素人なので4000万はかかる。つまり、非効率的でも正当性を追求する。

(2)100円のために、2000万円を使うのはあまりにも非効率的なので、たとえ不正であっても見逃す。

 みなさんはどうですか。私は状況によって異なるが、たぶん(2)の方なのだ。もちろん、お金の問題ではないという状況はあるのだが・・・・。

 私は、このような正当性と効率性が一致しない状況を不条理の一つと呼んでいる。

 この違いが気付いたのは、カントである。カントは事実問題(効率性問題)と正当性の問題を区別した。裁判を行うとき、まずその人は実際に何をしかのかを確定する。次に、その行動が正しいのかどうかを決定するということで、これらを混同してはならないといった。

 次に、ヴェーバーがこれを区別した。彼は、事実問題(効率性問題)と価値問題(正当性問題)は別の問題であり、事実問題は事実をもって議論できるが、価値問題は合理的に議論できない、神々の戦いになるので、社会科学は事実問題だけ扱うべきだと主張したのだ。

 このような区別は、どんな問題に対処するときにも重要だ。

2011年3月 2日 (水)

科学技術が発展すると

 いま、入試をめぐって大変な問題が起こっている。われわれが予想もできないことが起こるものだ。どうやって、問題をネット上の投稿したのか?・・・・・・・・・・連日、テレビで話題になっている。

 私が、携帯電話関係で驚いたのは、ある大学で講義をしている時だった。その日は、出席が少ないので、「出席を後でとります」と言って授業を始めたのだ。出席票も140枚ぐらいあれば、足りるだろうと思って事前に用意をしていた。

 そして、講義を終えて、いざ出席票を学生に配ったのだが、全然足りないのだ。そこで、私は、「友達の分までとらないように!一人一枚!」と強くいった。

 しかし、足りないのだ。結局、事務室にとりに行ったのだが・・・・・その時は理由は分からなかった。

 後で、いろんな学生から聞いてわかったのだが、授業中に友達にメールを打ったようだ。そして、私が黒板に文字を書いている間に、学生が教室に徐々に入ってきていたというのが本当らしい。

 驚いた。昔では考えられないことだ。

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