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2010年9月20日 (月)

カントに忠実であったがゆえに、ウェーバーはジレンマに陥った。その知的誠実さと知的廉直さに乾杯。

 今考えると、マックス・ヴェーバーは、本当にカントに忠実だったと思う。「目的合理性」と「価値合理性」という概念は、いずれもカントの二元論的な人間観に関係している。

 今日、われわれが使用している「合理性」という言葉は、大抵、ヴェーバーの「目的合理性」であり、「計算合理性」である。それは、論理的な合理性であり、数学的な合理性、因果法則的合理性、目的に対する手段の合理性のことをいう。

 しかし、合理性にはもう一つ意味がある。人間理性に合うという意味だ。合、理性的、という使用の仕方だ。この使用の仕方が、カントであり、ヴェーバーなのだ。

 カントは、大雑把にいうと、人間の理性は二つあるとする。「理論理性」と「実践理性」だ。「理論理性」は現象を因果論的に認識する理性であり、その因果論を利用して目的と手段の関係で行動する人間の理性のこという。

 カントはこのような理論理性にもとづく行動は因果法則に基づくので、その行動の原因は自分以外にある行動だとし、このような理性に従う行動を「他律的行動」といった。それは、人間だけではなく、動物もそのような行動をとるし、機械もニュートン力学に従うという意味で機械的行動でもあるといった。

 ヴェーバーは、このような理論理性に従う行動を「目的合理的」といったのだ。

 しかし、カントは人間にはこのような理論的な認識理性だけではなく、自らはじめる能力、自ら実践する自由な理性、つまり「実践理性」もあるとした。カントは、この理性の存在は、因果論では認識できないが、以下のような「理性の事実」として存在するといった。

 すなわち、本来人間は何もなければ、動物のように、機械のように、因果論的に、他律的に行動するだけの存在かもしれないが、なぜか「・・・そうすべきではない」という声が聞こ得てくるのだという。それは、理性の事実だというのだ。

 それは、因果法則、自然の法則を打ち破って、「・・・・すべきだ」という規範、倫理、価値として人間の理性が要求しくるのだという。このような実践理性に従って行為することを、ヴェーバーは「価値合理的」行為といったのだ。カントは、自律的行為といったのだが・・

 さて、ヴェーバーの悲劇はここから始まる。

 カントは、哲学者であり、倫理学者であったので、経験科学に関わる理論理性に必ずしもこだわっていなかった。彼が、こだわったのは実践理性の存在である。彼は、倫理学者であり、哲学者だったので、「実践理性に従って行為すべき」と規範を述べることができた。

 しかし、ヴェーバーは、倫理学者ではなく、哲学者でもなく、社会科学者として自分の立場を位置づけた。そして、彼は経験科学の方法は、価値自由の原理(Die Prinzip der Wertfreiheit)だといった。

 つまり、科学者は、実践理性のような価値に関わる価値問題を扱うのではなく、あくまでも理論理性に関わる事実問題を扱うことだとした。つまり、科学者は「目的合理的」行動を扱うのであって、「価値合理的」行為を扱うことではないということだ。

 このような科学方法論的な立場から、ヴェーバーの「プロ倫」はもどかしい内容となった。

経験科学者としてのヴェーバーは以下の発言にとどめた。

(1)「宗教改革によって、人々の心理や行動が価値合理的行為から目的合理的な行動に変わった。しかし、この目的合理的な他律的行動はやがて非人間的な社会を形成することになる。つまり、目的合理的な行動からなる魂のない機械論的な官僚制社会が形成されることになるだろう。因果法則、目的合理的なルールに従う魂のない人間組織社会、鉄の檻の中に生きる人間社会が、やってくるだろう。」(経験科学的説明)

しかし、倫理学者としてのカントはさらにこういっただろう。

(2)「人間は生まれながら自由ではないのだ。人間として生まれたからには、その他律的な機械論的社会を打ち破るように、「実践理性」にもとづいて、価値合理的に自由意思を行使すべきである。実践理性を行使して価値合理的に行為すべきである。それが人間としての義務だ。そして、人間らしい魂のある人間社会を形成すべし!」(規範論、倫理論)

 経験科学者であるヴェーバーは(1)の主張にとどまり、(2)のようなカント的な規範的発言は言えなかったのだ。これが、プロ倫の内容をもどかしくしているのだ。なぜヴェーバーはなぜ価値合理的行為について積極的に語らないのか?しかし、そこにこそ、経験科学者としてのヴェーバーの知的廉直さがあるのだ。

 その知的廉直性を忘れ、その後、ポスト・モダンと呼ばれる人々は、(2)実践理性に従う行為を経験科学的に扱おうとしているように思える。これは私の誤解かもしれないが・・・・

 この区別をよく理解して、実践理性の学問としてマネジメントを打ち出したのは、P・F・ドラッカーなのだ。だから、彼はマネジメントを科学ではないといっているのだ。

 

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