カントの話 啓蒙とは何か
K.R.ポパーは、科学的知識は日常的な知識を洗練したものだといっている。だから、知識を研究する場合、日常的な知識を分析するのではなく、その最も洗練された知識である科学的知識を研究することが、もっとも合理的だという。こうして、科学の哲学が発展した。
この同じことをカントの哲学についてもいいたい。カント哲学は決して日常的で世界から乖離した崇高な凡人には近寄りがたい知識ではないと思う。それは、日常的な知識を徹底的に洗練したものである。
このカント哲学のもっと重要な道徳的命題は、「人間、他人、相手をあたかも物理的な物や動物のように扱ってはならない」ということだ。なぜか。
人間には、物や動物と違って「自由意志」があるからだ。人間は、誰かに平手打ちをされて物理的に動くだけの物理的物体ではないし、お金につられて犯罪を犯す単なる動物でもない。
物体とは異なり、人間には打たれても折れない心や精神がある。逆に、非物理的に反抗してくるかもしれない。また、お金を出されても悪事に加担しないで、逆にそれに抵抗する心や精神もある。
これすべて、外部の刺激にとらわれないという意味で、人間には自律的で自由意志がある証拠だとカントはいう。
だから、そういった自由意志をもつ人間を単なる物や動物のように扱ってはならないのだ。そういった形で人を扱う人は、逆に相手から物や動物のように軽く扱われる運命にある。
だから、普段から問うてほしい。ゼミでグループ研究をしているとき、誰かがクラブの方に忙しくてそちらに注意がいき、平気で他のメンバーに迷惑をかける人がいるかもしれない。
そのような人に不満を持つだろう。その人の何が問題なのか。
それは、物理的に肉体的に他のメンバーに迷惑をかけている点が問題なのではない。そうではなくて、自分の目的のために他のメンバーを手段として利用している点が問題なのだ。つまり、相手をあたかも物のように扱っている点が、最大の問題なのだ。それは、人間として許されないのだ。
ゼミを就職の単なる手段にするな!というのは、この意味である。そういった態度をとる学生に、私の人間としてのプライドはひどく傷つけられる。私は物ではない!。私を単なる手段として使うな!と。
しかし、話はもっと深い。世の中、とくに会社には自由意志を行使するよりも、誰かに命令されて物のようにそれに従う方が楽だという人もいる。
しかし、それではだめなのだ。それは物や動物と同じなのだ。やはり、人間として生まれたからには自らの意志を行使すべきだ。だから、カントは以下のようにいう。
人間は生まれながら自由なのではなく、人間は自ら自由を行使し、それに対して自ら責任を背負うことによって、初めて自由になるのだと。
自分の自由意志を行使せず、人に言われるまま行動する人のことを、カントは「未成年状態」の人だという。なぜか。失敗したら、・・・に言われたからだ、子供のようにいえるからだ。
そうではなく、人間として生まれたからには、自由意志を行使し、失敗したらほかでもなく自分に責任があると言える人間になければなならいのだ。
このよう未成年状態から脱却させ、自由意志の存在を認識させ、それを行使させることを、カントは「啓蒙」と呼ぶ。
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このエントリーを読んではっとさせられました。
就職活動を通して気づいたのですが、自分は自分で思っていた以上に未成年状態でした。
多分、人間が自由意志を行使するのは思う以上に難しく、ほとんどの人が意思決定の大半の部分において不安に支配されているのではないかと最近は思います。その結果、意思決定を自分以外の価値基準などによって行ってしまう。
頭ではわかっていても、この不安から逃れるのは非常に難しい。
それだけに、真に啓蒙された人間は(本当に実在するのかどうかは分かりませんが)それだけで尊敬に値する人間なのだと思います。そして、同時に、啓蒙された人間ほど人生を楽しく生きることのできる人間はいないと思います。
私は先生から多くのことを学ばせていただきましたが、今日このエントリーを読んで、このゼミを選んだ選択が間違っていなかったことを改めて確信しました。
私も啓蒙された人間を目指してこれから精進したいと思います。
投稿: ゼミ生 | 2010年4月 5日 (月) 午後 08時06分