クリスマスに贈る学者の話
アインシュタインの相対性理論が論文として出現したのは、1905年12月クリスマス前のことだ。
この論文の内容は、当時としては非常に哲学的な側面をもち、物理学者には理解しにくい内容だった。ちなみに、1905年に彼はその他にも革命的な論文を2本だしている。一つは、量子力学の基礎となる論文。出てきた方程式には、量を表す文字と波を表す文字がイコールで結ばれていた。この式から、物質は量子であるとともに波でもあるという不可解な問題を残すことになる。この問題はいまも解かれていない。もうひとつは、ブラウン運動の論文である。
もちろん、いずれも革命的であるが、やはり相対性理論が一番だろう。しかし、それはあまりに当時の常識を超えていたので、だれも理解できなかったに違いない。事実、アインシュタインのノーベル賞の対象となったのは、相対性理論ではなく、量子力学の論文である。
しかし、世の中には、自分が創造する力はないが、他人の業績の凄さだけは理解できてしまうという人物がいるものだ。たとえば、モーツアルトの才能に気付いたサリエリだ。
そして、アインシュタインの相対性理論の凄さに気付いた学者がいたのだ。それが、ベルリン大学のマックス・プランク教授だ。当時のドイツには大学はピラミッド的な階層があり、その頂点にベルリン大学があった。
プランク教授は平凡でまじめで誠実な人だった。秀才だったが、自ら新しい何かを生み出すような天才ではなかったかもしれない。ひたすら、シャベルで金鉱を掘り当てるような地道なタイプだった。
その彼がアインシュタインの相対性理論の凄さにいち早く気づいた。彼には聞こえたはずだ。20世紀の幕開けとなるベルが鳴りわたっていることを。まさに、それは、クリスマスの日だ。こうして、プランク教授は、早速、ドイツの研究者の憧れの大学、最高峰のベルリン大学にアインシュタインを呼ぶことになる。
しかし、ときはナチスドイツが勢力を拡大しつつある時期だった。アインシュタインはベルリン大学に着任し、まもなく米国のプリンストン大学の高級研究所に招待されることになる。
しかし、この誠実なプランク教授を神は見捨てなかった。地道な研究によって、彼は救われた。金鉱を掘り当てたのだ。それは、いまでも知られているプランク定数だ。これによって、彼もまたノーベル賞を受賞することになる。
クリスマスをめぐるたわいもないお話
« 肉食男子渋沢栄一と草食男子福澤諭吉 | トップページ | 冬休みに入って体調が悪い »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 行き着くところはゲシュタルト心理学(2021.01.19)
- 日本政府、組織の不条理(2021.01.05)
- リスクと不確実性 どちらも解けない。(2020.08.18)
- 謹賀新年 最近の本の傾向(2020.01.04)
- サガン鳥栖について(2019.02.24)
コメント