ドグマ的反証主義について(科学哲学講座)
拙著『戦略の不条理』、『組織は合理的に失敗する』、『戦略学』で、K・R・ポパーのことを紹介しているので、ほんのわずかな影響だが、ポパーに関心をももつ人もでてきた。
しかし、ポパー、そして科学の哲学は注意深く接近する必要がある。重箱のすみを突っつくような議論が多いからだ。
まず、もっとも重要なのは、経験科学的な真理の定義から始まる。ポパーは、タルスキーによる定義に依存している。
●真理=言明と実在が一致したとき、その言明は真理である。
これが経験科学者が意識すべき真理だという。しかし、このような真なる言明をわれわれは人間は獲得できない。だから、経験科学の目的は真理の獲得ではないということになる。なぜか。
●証明
ある言明を真理だというためには、その言明が実在と一致したことを証明する必要がある。そして、その証明には言明が必要となり、当然、その言明の真理も確定する必要がある。しかし、その言明の真理性を確定するにはまた言明が必要となり、この正当化のプロセスは無限に後退してゆくだけとなる。したがって、論理的に言明の真理を確定できないのだ。最後は、ドグマ的か、暴力か、・・・・かとなる。
ここから、科学の目的を真理の獲得だとすることはできない、とうのがポパーの考えである。
●ドグマ的正当化主義、ドグマ的反証主義
以上のことを理解すると、自分が見つけた事実だけが硬い真理だとして、自分の理論を正当化することはできないのだ。それは、ドグマ的正当化主義者であり、そんな硬い事実はないのだ。それはいまのところ、問題がないだけという程度で、それが真理である保証は一つもない。それにもかかわらず、逆にその事実を真理だとして、他の理論を反証しようとするのは、ドグマ的反証主義者であり、ポパーもその弟子(後に敵)ラカトシュもそれは自分たちの立場と異なることを強調する。歴史を研究している人は、自分が発見した歴史的事実を真理だと思って、それを振り回したがる傾向があるので、とくに要注意だ。それもまたいまのところ問題がない程度の事実なのだ。
●方法論的反証主義、素朴な反証主義
ポパーやラカトシュは、どんな歴史的事実や観察データーも真理ではなく、いまのところ問題がないという程度で受け入れ、もし問題があれはいつでもそれを修正するという形で、批判的な議論を行い、真理の獲得ではなく、少しでも真理に接近しようという立場なのである。彼らは、自分たちを方法論的反証主義者、あるいは素朴な反証主義者という。
●洗練された反証主義
では、洗練された反証主義というもはあるのか。あるのだ。これはラカトシュが提案しのだが、理論のない観察などないというのが理論負荷性のテーゼだ。このテーゼが正しいならば、独立した観察などないのだ。必ずその観察言明の背後には別の理論があるのだ。したがって、理論と反証事例という対立は実は、理論と理論の対決なのだという立場である。
いずれにせよ、われわれ人間は真理など獲得できないのだ。正確にいえば、獲得しているかもしれないが、そのことを証明できないのだ。したがって、固い真なる事実やデータなどを振り回してはいけないのだ。科学の目的は真理の獲得だとすると、勘違いした傲慢なドグマ的人間がでてくるのだ。そんな勘違いした人がでないように、ポパーは批判的議論を通して真理へ接近することが「科学の目的」だとしたのだ。
●科学の目的=真理への接近
ポパーについて理解できたでしょうか?以上、本日の科学哲学講座はこれで終わり。あ~疲れる議論だ。こういう議論は若いときにしておくべきだ。
ところで、Fugimotoさんは以上の文章の意味と意図はわかりますよね。
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