バスの中にある特別シートをめぐって
米国では、社会全体がそういった雰囲気なのだが、バスの中では自然とレディーファースト、老人、子供に席を譲る。それが実にスムーズであり、その流れにわれわれ日本人も溶け込める。
ところが、日本に帰国すると、これがまったくできない。席を譲ると、譲られた方も「私は老人じゃない」という顔で迷惑がられるときもある。難しい。
さて、昨日、雨の日、私は夜疲れてバスに乗った。ご存じのように、バスは乗車口近くに赤いシートがあり、そこが特別シートとなっている。ちょうど、そこが開いていたし、私もその日は疲れていたし、この時間帯に老人が乗る可能性は低いし、もしかしたら、もう私もそのような年齢なのかもしれないと、瞬時にいろいろと、考えて座った。
なにもなく、バスは動き出した。すべてが予想道理だ。と、思った。しかし、次の瞬間、バスがあるバス停で止まり、老人かどうか微妙な男の人が乗ってきた。困った。その人は、やはりすわりたいのか、バスの奥に行こうとしない。
しかし、この雨でこの時間まで外出しているくらい元気なのだから、老人とはいえないかもしれないと自分にいい聞かせ、席を譲るのをためらった。しかし、その男の人はやはりバスの奥の方へ移動しない。困った。
動けない状態だ。ナッシュ均衡かもしれない。しかし、次の瞬間その均衡は崩れた。
次の停車場にバスが着いたとたんに、たくさんの元気のいい人々が乗ってきて、その老人はその人波に押されて奥に行ってしまったからだ。
カントによると、こういった迷う気持ちがあるだけでもいいのだ、ということらしい。それを「理性の事実」というのだ。私は悪しきカンテリアンかもしれない。
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