合理性という言葉
「合理性」という言葉は深い言葉だ。われわれはふだん何気なく使っているが、その意味は多様だ。
「理論あるいは論理に合う」という感じで使う人は、論理的とか計算可能的とかいう感じで使うのだろう。
「人間理性に合う」という意味もある。この場合、人間理性は限界があるので、その理性の限界をもとにして批判的に生きることが理性に合う合理的な生き方となる。
この意味で、合理性を使っているのが、K.R.ポパーだ。だから、彼は、自分の立場を、批判的合理主義と呼んだ。彼にとっては、批判的と合理的は同じだという意味だ。これは、カント的な使い方だ。
上記のことも知らずに、昔、ポパーの批判的合理主義を合理性を批判する立場だと解釈した経営学者がいたが、・・・・・・・ああ~
「合理性」といえば、何といっても、M・ヴェーバーだ。彼ほど合理性にこだわった学者はいない。彼は合理性を目的合理性と価値合理性に区別する。彼は、目的に対して適切な手段的な行為を目的合理的と呼び、ある絶対的価値に従って行為することを価値合理的といった。
西欧では、宗教改革後、人々は意図的に価値合理的行為を行い、その行為は同時に意図せざる結果として目的合理的行為となっていた。やがて、価値合理的行為は意図からなくなり、意図的に目的合理的行為を行うようになった。こうして、魂のない機械のような資本主義がやってくるというのだ。
もしヴェーバーが思っていたように、人間が「利己的」で「完全に合理的」ならば、自生的秩序としての市場経済が発生し、効率的資源配分を行う世界がやってくる可能性があった。そこには、感情や道徳などはない。機械のように、希少資源が効率的に配分され、利用される世界だ。
しかし、現実は違った。人間は「利己的」だが「限定合理的」であったのだ。そのために、機械仕掛けの自生的秩序としての市場は完全には形成されず、不正、モラル・ハザードが発生したのだ。そして、・・・・・
その後については、また・・・・・・・慶応の「アゴラ」で一緒に考えましょう。
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