新制度派経済学の限界
私は、これまで新制度派を専門に研究してきた。制度によって、多くの問題が解決されると思ったからだ。また、それは経験科学としての特徴を持っていると思ったからだ。
しかし、最近、新制度派に限界も感じている。もちろん、もともと新制度派経済学など完全なものとは思っていない。新制度派経済学を愛するがゆえに、誰よりも早く、誰よりも強く、その限界を感じるようになったといいたい。
もともと理論というものは、一面的なものだ。だから専門なのだ。この意味で、新制度派経済学による説明は一面的な説明だ。また、新制度派経済学による制度的解決も一面的だ。
ある街である企業が公害を発生させたとしよう。マイナスの外部性である。倫理的には、所有権を明確にし、その責任を企業に帰属させて、その企業に損害賠償させるべきでああろう。そのために、その企業が倒産しても。しかし、新制度派的には、その責任を帰属させるためのコストがあまりにも高い場合には、非倫理的だといわれようと、あいまいにした方がいいという結論にも導かれるのだ。特に、その企業がいま流行っている病気の特効薬を製造している唯一の企業であれば、それを倒産させるコストはあまりにも大きいので、所有権や責任をあいまいにする方が合理的となるかもしれない。
しかし、このような限界とは別に、新制度派経済学には大きな問題がある。それは、人間を対象とするすべての経験科学的な社会科学の限界でもある。
新制度派経済学は、制度による解決を展開するので、過去に向かって制度に反応する他律的人間行動を説明する。また、未来に向かって、事前に制度を設計し、制度に反応するような他律的人間を形成することになる。ここに、問題がある。
*他律的人間行動とは、行動の原因が自分以外にある行動。お金や食べものや地位につられて行動すること。
この学問は、精神なき人間、エートスなき人間、自由意思なき人間を作ってしまうのではないか?そのような人間を形成する資本主義制度、市場制度を作ってしまうのではないか?
こういった疑問である。
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菊澤先生
E.L.デシの実験に金銭的報酬が逆に人の勤労意欲をそいでしまうというものがありました。この説からも人間の行動の意志には他律的な側面以外にも自律的な要因に基づくものがあるのではないかと感じました。
このような学説へ、菊澤先生の提唱されたポパーの3つの世界観に基づく考え方を当てはめてみました。デシの実験結果で金銭的な報酬がもたらす逆の効果というものは、心理的なものか、または知性的なものなのかは判断がつきませんでしたが、物理的な世界観以外の要因があるのではないかと漠然と感じました。
エートスというものも、きっと、物理的な世界観以外のものであるような気がします。心理的なものであるか、知性的なものであるかは私にはわかりませんが、何か自律的に人の行動への意欲をかき立てる何かであるとは感じています。
先生が持たれている疑問とは、新制度派の物理的世界観における制度の中での人間と人間の競争や抑止力といったパワーバランスにより、時に悲しく冷たい結果と感じられるような判断が合理的に下されてしまうものである可能性を仰っているのではないかと思います。
人間には、時に無償でも他人へ手を差し伸べる思いやりのような行動もありますので、そのような心とは、他律的な面だけでは語れない行動要因であり、きっと自律的なものなのではないかと思います。
人間のそのような側面を、先生が心理的世界観や知性的世界観から捉えることにより、言葉で表すことができるのではないかと期待しています。
まとまりなく、説明不足によりわかりにくい文章となっていることと思いますが、どうかお許しください。
投稿: Sato | 2009年7月 7日 (火) 午前 01時01分
お題
未来に向かって、事前に制度を設計し、
制度に反応するような他律的人間を形成することになる。ここに、問題がある。
この学問は、精神なき人間、エートスなき人間、自由意思なき人間を作ってしまうのではないか?
そのような人間を形成する資本主義制度、市場制度を作ってしまうのではないか?
この悩みは、
別々の問題を同時に取り扱っているのでしょう。
1.人が他人を誘導する行為も自由意志です。
2.人が自分の意志でその誘導に乗るか誘導に乗らないかも自由意志です。
これらは別々の自由意志か如何かの問題です。
自由意志の尊重が誘導の否定なら、
男女の恋まで否定しかねない事になります。
魅力の創作は自由の否定ではないでしょう。
良いと思って作った魅力も絶対に良い魅力とは限りませんから、自由意志でその誘いに乗らない天邪鬼が必ず出ます。
天邪鬼を非国民などとラベリングして排除しなければ立派な自由です。
僭越ながら感想を書きました。
投稿: 匿名 | 2009年7月 7日 (火) 午前 10時15分
菊澤です。
みなさん。面白いコメントありがとうございます。いろいろと考えさせられますね。以下の意見は上記のコメントとはかみ合っていない私の勝手な答えですので、あまり気にしないでください。
ただ天邪鬼の話の部分は賛成です。
*******
匿名さんのご意見も良く理解できます。しかし、そのご意見は私にとっては論理的な答えであって、必ずしも現実的ではないかもしれないと思ってしまうのです。
というのも、上記の自由意志の存在を前提としたお答と同じ正当性をもって、以下のような自由意志の存在を否定する命題も論理的に成立すると思います。
1.人が他人を誘導する行為は制度(命令)に従うものです。
2.人がその誘導に乗るか誘導に乗らないかも制度(命令)に基づくものです。
*自由意志など存在しません。
二つの背反する命題が同じぐらいの正当性で成立することをカントはアンチノミーといっていますが、このケースは確かカントの4番目のアンチノミーです。
私は、カントがいうように、人間には自由意志もあると思いますし、刺激反応的に制度(規範・ルール・命令)に盲目的に従うこともあると思います。
だだし、人間は自由意志を行使して行動するよりも、ルールに従って行動したり、上からの命令に従って行動した方が楽なので、新制度派経済学がみんなに受け入れられ、制度を駆使した世界ができると、自由意志を行使しない人間が増えなければいいなあ~ということですね。まあ、新制度派は主流にはならないと思いますが・・・
投稿: 菊澤 | 2009年7月 7日 (火) 午後 09時51分