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2009年7月

2009年7月29日 (水)

試験と人間の性善説と性悪説

 いま、どこの大学でも前期の試験を行っていると思う。こういった時期、われわれ大学教員にとって、もっとも頭を悩ます問題は学生の不正行為、カンニングだ。学生も巧妙な行動をとる。

 私は、いま学習指導主任を担当しており、不正を犯した学生や疑わしい学生と面談し、指導する役だ。また、このようなことに関連して先生とも話しをする立場だ。幸い、今回はほとんどない。

 しかし、こうした立場にいると、学生の不正行為に対して性善説の先生と性悪説の先生とでは対処の仕方に大きな違いがあることがわかってきた。

 性善説に立つ先生は、本来、人間は正しいことをするものだとして、不正を犯した学生を指導し、もとの正しい姿に戻そうとする。だから、不正がでてきたときには、事後処理が大変だ。

 残念ながら、私はこの立場ではない。私は性悪説だ。新制度派経済学的にいえば、学生は機会主義的に行動すると考えている。

 このような立場の人間にとって、もし不正が出た場合、われわれの試験の仕方や出題の仕方が悪かったということ、それゆえ不正がでないような制度や仕組みを変える必要があると考えるのだ。たとえば、不正がでないように、持ち込み可にするとか。

 このような立場の先生は、不正が出現した後の処理が簡単で、私の担当からすると、ありがたい。

 別の見方をすると、前者の先生方は倫理学的な人たちで、後者の人たちは経済学的なひとたちだと思う。

 みなさんは、どちらの立場ですか?

2009年7月23日 (木)

一つ上の才能をみた

 先週の日曜日に子供たちのピアノの演奏会があった。子供たちは、いつの間にか、習っている先生のグループの年長者になっていた。

 子供たちも大きくなり、私も何回も聞いているので、最近はそれほど興味を惹かなくなったというのが、本当のところである。今回は、演奏会の第二部で先生と子供たちがいろんな有名人の曲を弾くというプログラムだった。

 何気なく聞いていたが、驚いたことがある。今回、いろんな有名人の有名な曲を比較して聞くと、私にとってはチャイコフスキーの「白鳥の湖」と「くるみ割り人形」は別格だと思ってしまった。彼の才能は他の有名な作曲家より一つ上だと思った。何か、突き抜けているのだ。

 その音楽はわれわれに白鳥やくるみ割りといった光景を抱かせるのだが、そんなことはどうでもいいのだ。その音楽自体が美しく、シンプルだ。すごい。彼の音楽は、現実世界や心の世界の模写ではない。それ自体がシンプルで美しいのだ。それは発明というより、発見だと思った。

 そこに、才能というか、プロというか、私のような凡人には近づけない何か天才を感じて、それだけでとても有意義で幸せな一日となった。

 このことと関連して、どう関係しているのか、まだ自分でも整理できていないのだが、次のニュースが私を惹きつけた。

 マイケル・ジャクソンの追悼コンサートで、マライヤ・キャリーが登場し、歌を歌ったが、少し声の出が悪かったらしく、それを彼女がやたらに気にしているという記事だ。追悼記念なのに、マライヤ・キャリーは自分のことしか考えていない、いやな不謹慎な人物といった感じの内容だった。

 しかし、私は、逆にマライヤ・キャリーはすごいと思った。一つランクが上のプロだと思ってしまった。あれだけのキャリアをもっていても、いまだこのようなことを気にすることに、驚いたのだ。すごい。

 こんな小さいことなど・・・と思う人は、その道のプロではないのだ。まったくの凡人だ。凡人は進歩する気がないので、年齢とともにただ鈍感になってしまうだけだ。彼女は、いまだにより高い世界へ向かっているのだろう。その道に終わりはない。

 実は、私はマライヤ・キャリーのことを必ずしも好きではなかったが、これでファンになってしまった。「I'll be there」 はマイケル・ジャクソンもいいが、彼女もいい。

 

 

2009年7月13日 (月)

秋の講演・講義・準備・著書

 もうすぐ前期の講義も終わる。今年も、9月以降たくさんの仕事が入っている。

(1)経済同友会でのコーポレート・ガバナンスの講演

(2)日本経営学会全国大会統一論大のコメンテータ

(3)経営哲学学会で基調講演での司会

(5)防衛省での講演

(4)組織学会50周年記念の学会報告

(5)光文社新書『戦略の不条理』

(6)『組織の不条理』の文庫化

(7)朝日カルチャーでの講演3回

(8)最も楽しみにしているのは、慶応義塾大学夕学の「アゴラ」で古典を通して考える「自由と資本主義」という講座を担当することだ。6回

 この講座では、マック・ヴェーバーの『プロ倫』の分析を通して、現在、われわれわれが置かれている現在の資本主義的状況を認識し、いかにして企業、企業人、ビジネスマンが現代を生き抜くべきかを受講者とともに考える。

 社会科学的議論、経済学的議論、経営学的議論だけではなく、哲学的議論も展開したいと思っている。そのため、非常に著名な先生もゲストとして登場していただくことになっている。関心ある人は、ぜひ受講していただきたいと思う。

2009年7月 6日 (月)

新制度派経済学の限界

 私は、これまで新制度派を専門に研究してきた。制度によって、多くの問題が解決されると思ったからだ。また、それは経験科学としての特徴を持っていると思ったからだ。

 しかし、最近、新制度派に限界も感じている。もちろん、もともと新制度派経済学など完全なものとは思っていない。新制度派経済学を愛するがゆえに、誰よりも早く、誰よりも強く、その限界を感じるようになったといいたい。

 もともと理論というものは、一面的なものだ。だから専門なのだ。この意味で、新制度派経済学による説明は一面的な説明だ。また、新制度派経済学による制度的解決も一面的だ。

 ある街である企業が公害を発生させたとしよう。マイナスの外部性である。倫理的には、所有権を明確にし、その責任を企業に帰属させて、その企業に損害賠償させるべきでああろう。そのために、その企業が倒産しても。しかし、新制度派的には、その責任を帰属させるためのコストがあまりにも高い場合には、非倫理的だといわれようと、あいまいにした方がいいという結論にも導かれるのだ。特に、その企業がいま流行っている病気の特効薬を製造している唯一の企業であれば、それを倒産させるコストはあまりにも大きいので、所有権や責任をあいまいにする方が合理的となるかもしれない。

 しかし、このような限界とは別に、新制度派経済学には大きな問題がある。それは、人間を対象とするすべての経験科学的な社会科学の限界でもある。

 新制度派経済学は、制度による解決を展開するので、過去に向かって制度に反応する他律的人間行動を説明する。また、未来に向かって、事前に制度を設計し、制度に反応するような他律的人間を形成することになる。ここに、問題がある。

*他律的人間行動とは、行動の原因が自分以外にある行動。お金や食べものや地位につられて行動すること。

 この学問は、精神なき人間、エートスなき人間、自由意思なき人間を作ってしまうのではないか?そのような人間を形成する資本主義制度、市場制度を作ってしまうのではないか?

 こういった疑問である。

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