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2009年5月

2009年5月30日 (土)

東電の本店での講演

 昨日、「東電の新橋イブニング会」で『日本陸軍に学ぶ組織の不条理』というテーマで講演をした。

 通常は、30名前後しか集まらないという会に、今回はなんと70名以上の東電の社員の方々が、私の講演を聞きに集まってくれた。それだけでも、大変、嬉しいことだ。やはり、軍事ものは人気があるのだろうか。

 また、役員の方々からの質問もとても良い質問がたくさんあり、私の方も非常に勉強になった。また、私のちょっとしたジョークにも、会場がすぐに反応してくれ、その反応の速さに驚いた。おそらく、優秀な人たちが集まってくれていたんだろう。

 さらに、この会を主催してくれた研修センターの方々も、最後までとても気を使っていただき、非常に楽しい時間を過ごすことができた。すべてに満足しました。心から、感謝しています。

2009年5月28日 (木)

ニックリッシュとヘーゲル

 経営学には、二つの難解な本がある。ひとつは、ハインリヒ・ニックリッシュの『向上への道、組織』であり、もう一つはバーナードの『経営者の役割』だ。

 朝日カルチャーの今回の講義では、彼らの議論に挑戦する。私の考えでは、ニックリッシュの議論はヘーゲル哲学で補完すると、もっと魅力的になる。また、バーナードの議論は、カント哲学で補完するともっと魅力的になる。さらに、ドラッカーの議論もカント哲学によって魅力的になるのだ。そのことを、今回の朝日カルチャーで説明する。

 このようなとんでもない議論を展開しようとしているにもかかわらず、昨日、足を運んでくれた受講者には感謝したい。ニックリッシュとヘーゲルの魅力を少し理解していただけたでしょうか?

どんな講義なのか、関心のある方は、一時的にPDFここに貼り付けたいと思いますので、覗いてみてください。

2009年5月24日 (日)

申し訳ありません、返事が書けなくて

 私が慶応義塾大学に戻ってきて、これだけはしてはいけないと思っていたこと2つがある。

(1)名刺を必ず持ち歩くこと。若い学者のほとんどは、最初はそれほど有名大学ではない大学に就職する。そして、彼らは、一所懸命にいい論文を書き、より良い大学に転職しようとする。そして、そのわずかな機会をえるために、学会の懇親会に出席し、有名な大学の先生と名刺交換するものだ。私も経験した。

 こうした若い学者に対して、最初から運よく有名大学に残れた人たちは転職のことなど考えたこともないので、そのような努力をしていることなどまったく知らないと思う。だから、たんに懇親会に出て楽しんでいるので、私が良く経験したのは名刺をもっていない人が多いのだ。はじめから持ってこないのだろう。そのような現象に出くわしたとき、私は「何か嫌な感じ」がした。お高く見えた。

 だから、そうなってはいけないと思い、必ず名刺を持つようにしている。若い学者から、名刺交換を求められれば、必ず出せるようにしている。名刺を忘れたらときに、本当に恥ずかしく思う。

(2)もう一つ、若い学者や先生から本や論文を送っもらったときには、必ず返事を書くこと。私も、若い時、有名な先生によく論文を送ったものだ。そして、返事をもらうと、とても嬉しかったことをよく覚えている。

  しかし、本当に申し訳ない。

 いま、私にいろんな方が論文や本を送ってくださるのだが、あまりにも忙しくて、お礼を書けない状態です。これは権威主義になったからとか、威張っているとかではなく、本当に時間がないので、もしまだお礼をしていない方がいたら、どうかお許しお願いいたします。

 

2009年5月22日 (金)

ミサイルからインフルエンザ

 最近のニュースのほとんどが新型インフルエンザの話だ。緊急ニュースも、インフルエンザだ。厚生労働省も一所懸命やっている姿を見せるのに忙しい。

 しかし、あまりにも過剰な感じもする。この同じ光景を、つい数カ月まえに見たことがある。北朝鮮のロケット発射のときだ。マスコミが異常に騒いた。

 今回の件で、残念なのは、東京の女子学生で、日本の学生代表としてNYの国連に行ってきて新型インフルにかかった生徒のことだ。

 「こんなことになってすみません」と謝っているようだが、謝る必要なんかひとつもない。むしろ、日本の代表としてよくやって帰ってきたと、私は手が痛くなるほど拍手したい。今後、大人になっても日本の代表となって、ぜひとも活躍してほしいものだ。

 そんなことを、まったく無視して、その子の帰国後の足取りだけを追跡するマスコミにはうんざりだ。何かもっといい対応の仕方はないのか?

  何かとても残念だ。

2009年5月17日 (日)

学会よりもダンゴ

 名古屋で学会があった。実は学会で名古屋にいったのははじめてだ。学会よりも、私にとって、名古屋はすごいと思ったことがある。食べ物だ。

 ひつまぶし、みそカツ、みそに込みうどん、きしめん、天むす、ナゴヤコウチン、手羽先、

 すごい。どれもおいしそう。みんな食べてみたかったが、時間がなかった。結局、ひつまぶしにした。お店には、食べ方が書いてあって、はじめはそのまま、次にかやくをいれて食べ、最後にお茶漬け、それでも余ったので、最後にまたそのまま食べたが、おいしかった。ボリュームもあった。

 大阪人には悪いのだが、大阪のお店はおいしいのだが、量がしょぼいときあがある。名古屋は量も質もいい感じがしたという感じで戻ってきた。

 東京や横浜にもみそカツの店はあるのだが、やはり名古屋のお店の方がうまそうに見えた。食べたかったなあ~

 学会の方は、私の知らないところで険悪な議論があったようで、おいしくなかったようだ。まあ、日本の学会はあまりにも実務から離れており、金融危機状況にある現状とは別にとても平和な時間が流れていた。

2009年5月15日 (金)

どうか男らしく

 最近は、男女平等、男女差別禁止というスローガンのもとに、いろんな現象が起こっている。

 たとえば、昔は、小学校のクラスには会長、副会長あるいはクラス委員長、副委員長がいたものだ。しかし、それは不平等なので、最近ではそういいった役割をなくしているという。

 また、運動会では、足の遅い子供と足の早い子供とを差別しないために、運動会前にタイムトライヤルをさせて、遅い子供同士、早い子供同士で競争させるという方式をとっている。

 まったく奇妙な現象だ。そんなことをしたら、走る前から順位はもう決定しているのだ。子供はみんなぎりぎりで走っているので、早いもの同士でもすでに順位は決定しているのだ。早いもの同士のビリは本番もビリなのであり、本番で番狂わせなど絶対に起こらないのだ。それこそ、不平等な調整だ。

 人間なんてもともと、ひとりひとり能力は異なっているものだ。ある点では優れている子供もいるし、別の点で優れている子供もいる。多様だ。

 だから、子供も馬鹿ではないので、戦略的に生きてゆくものだ。足が遅い子供は足が遅いなりに生きて行くことを学ぶだろう。勉強が嫌いな子供はそれなりに生きようとするだろう。こうして、人間は戦略的な知恵や知識を育むのだ。

 それは生物界と同じだ。ライオンだけが生きているわけではない。弱い動物も生きているのだ。みな戦略的に生きているのだ。

 こういうことをいうと、平等原理主義者に怒られるかもしれないが、私はとくに男子諸君にいいたい。意味はわからないかもしれないが、「とにかく男らしく行動してくれ!」、「男らしく堂々と行動しほしい!」、「ずるい行動はしないでくれ!」

 「どうも最近の男子諸君の行動は・・・・ブツブツブ・・・」 

 アッツ!!!!

いま、気づいた。自分が、若い時、嫌っていた年寄りになっていることに。しまった!

2009年5月12日 (火)

大学というパイロットケース

 大学の教員組織ほど古臭いものはないと思っている人は多いだろう。まさに、白い巨塔、のイメージだろう。しかし、日本のどの企業よりも早く新卒採用を止め、中途採用を進めたのも大学の教員組織だ。

 昔は、助手で採用されると、終身雇用で、不満がなければ一生同じ大学に残れるのだ。だから、とにかく入口が重要なのだ。

 しかし、このシステムは危険なシステムだ。

 まず、若い人は業績ないので、判断基準が難しい。大抵はどの大学出身かとか、指導教授はだれかなどが大きな要因となる。しかし、これはこれでガバナンスが効いている。その若い人がダメな人だと、指導教授の評判が落ちるのだ。また、出身大学の評判が落ちて、次の弟子の就職に響くのだ。

 しかし、結果的にこの雇用システムは不評で、終身雇用に安住して業績を挙げずに居残る人があまりにも多く、今日、有力な大学ではこの制度はなくなった。

 代わりに出てきたのは、中途採用であり、公募制度である。今度は業績をみて採用しようというものだ。この制度にも問題がある。業績を判断することが難しいのだ。ただ優秀というのも問題で、やはり性格などもいい、バランスいい人が好まれるように思われる。しかし、その評価は難しいものだ。はっきりいえば、最後は「運」だ。

 また、個人が評価されるので、このシステムで採用された人はなんの気兼ねもなく、どんどん大学を移ってゆくものだ。大学には、アカデミックな仕事だけではなく、雑用も多いので、急に移動されると、困ったことが起こることがある。米国と異なり、日本ではアカデミックな仕事だけをすればいいというシステムになっていないのだ。

 しかし、私の見方では、この制度をまた昔のシステムに戻すような傾向は、いまのところないように思える。

 ということで、日本企業も新卒にこだわらずに、ぜひ広く中途採用も行ってほしいものだと強くお願いしたい。これは、学習指導主任としての切なる願いだ。

2009年5月11日 (月)

「週刊ダイヤモンド」最後のブックレビュー

 4回にわたる『週刊ダイヤモンド』(明日月曜日発売)での書評も、今回で最後になる。経営哲学学会会長として、「経営哲学」を共通のテーマとして、以下のように紹介してきた。

1回目のブックレビューは経営哲学に関する一般論

2回目のブックレビューは経営哲学が扱う最新の問題(コーポレート・ガバナスとCSR)

3回目のブックレビューは歴史に学ぶ経営哲学

そして、今回最後の4回目のブックレビューは経営者に学ぶ経営哲学である。

関心のある人はぜひ本屋やコンビニで見てください。

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Book

2009年5月 8日 (金)

知識創造とイノベーションの同等性とその帰結

 ここ数年、「知識創造」と「イノベーション」という言葉が流行りだ。私は、これまで科学哲学を学んできて、変な偏見をもっていたので、気付かなかったが、これらは以下の意味で同じものであることがわかった。驚いた。

1イノベーション

 イノベーションというと、シュムペーターだ。シュムペーターの考えるイノベーションとは、以下の2点のことだ。

(S1)既存の知識を新たに結合すること、それゆえ無から突然有を生み出すことではない。あくまでも新結合ということ。この点は重要だ。よく新しいアイディアがでると、それは切り貼りだとかいう人もいるが、大抵はそういった切り貼りが偶然成功したときには、イノベーションが起こるのだ。(Neue Kombination: ノイエ コムビナチオン:新結合)

(S2)シュムペーターのイノベーションのもう一つの条件は、それを実行することだ。この点を忘れてはならない。新しい結合がでて、それが世間に認められると、あんなことは自分がずっと前から言っていたという人がいるが、実行しない人にはその名誉にはあずかれないのだ。 (Druchsetzung:デュルヒゼッツンク:実行)

2 知識

科学哲学でいう知識の創造も実は新結合なのだ。カントによると、命題には二種類ある。

「Aならばaである」=「白布は白い」=分析命題=トートロジー=数学・論理学

「Aならばbである」=「朝カラスが鳴くと、必ず人が死ぬ」=総合命題=経験科学

前者は述語aが主語Aから引き出されたものなので、新結合ではない。それは経験的にテストする前から正しい命題である。それは主語を分析したのであり、それは繰り返して主語をより明確にしただけのトートロジーである。これは知識創造ではない。

後者は主語と述語が全く関係ないのに、結合するという意味で新結合であり、知識を拡張するという意味で綜合命題なのだ。その妥当性は、実際にあるいは経験的に確かめないとわからない。これが経験科学的知識である。その特徴は、シュムペーターと同じであることがわかる。

(K1)関係ない現象を新しく結合していること。

(K2)その妥当性を実際に経験によってテストすること。

3 同等性

以上のことから、以下が成り立つと思う。

(k1)=(S1)

(K2)=(S2)

もしこの関係が正しいならば、以下の結論に至る。

イノベーションに至る真なる論理あるいは新なる経験理論はない。

by K.R.Popper

2009年5月 7日 (木)

あっという間に連休も終わり

 連休もあっという間に終わった。いろいろと溜まっていた仕事をするのに非常に時間がかかった。いろんな仕事を引き受けてしまうので、ときどき混乱してしまうことがある。

 人気者作家や人気研究者と違って、慣れてないせいか、声がかかった仕事はすぐに受けてしまうのだ。

 学者というのは、若いときは本当にヒマなのだ。(これは私だけかもしれないが)特に文系の学者は自宅に長くいることができる。だから、若い時には、気分転換に家内と一緒によくスーパーに買い物にいったものだ。時間があるのだが、金がないので、そんな感じで気分転換していた。

 しかし、時間があると、論文が書けるかというとそうでもないのだ。やはり頭がすっきりしないのだ。むしろ、忙しい時の方が書けたりもする。不思議なものだ。

2009年5月 3日 (日)

私の苦手な分野

 私は慶応義塾大学そして大学院を卒業していくつかの大学で教えてきた。慶応大学のようにすべての設備が整い、スタッフもたくさんいるような大学では経験できない体験をしてきた。つまり、私の主観的見解では、大抵の大学ではスタッフが十分いるわけではないので、いろんな科目を担当することになるのだ。

「経営学」、「経営組織論」、「経営戦略論」

「経済学」=ミクロ経済学とマクロ経済学

「人事労務論」、「経営財務論(ファイナンス)」、「経営学説史(米国とドイツ)」

「比較経営論」

 そして、会計学にも近い科目も担当した。私の指導教授がドイツ経営学の専門家だったのだが、ドイツ経営学の本質は実は会計学(ドイツでは経営経済学という)なので、シュマーレンバッハやニックリッシュやワルプなどは得意なのだ。

 また、ドイツでは科学方法論争が盛んだったので、科学哲学や科学方法論も得意だ。とくに、学部から大学院では、K・R・ポパーの科学哲学を研究し、同じ流れのM・ヴェーバーやI・カントなども研究していたので、この分野の哲学は大好きだ。

 これは良いことか悪いことかわからないが、こういった理由で、経営学に関係するほとんどの分野は最低限知っている。

 しかし、このように、いろんな科目を教えてきたのだが、いまだに苦手な科目がある。それは「マーケティング」だ。この科目は私にとって非常にわかりにくい科目であり、いまでも苦手意識がある。なぜかわからないのだが、マーケティングの概略を3、4回で講義しないさいという注文が一番つらかった。何か体系的ではないというか、非常に解説のし難い学問だなあという印象がある。わからない。

しかし、最近、マーケティングは戦略論と接近しているので、少しは親近感をもっている。

2009年5月 1日 (金)

取引コスト理論への批判と反論

 取引コスト理論をめぐっては、これまでいろんな批判がなされてきた。そのうちの一つが、取引コスト理論では、コストの側面だけが強調され、ベネフィットの側面が無視されているという批判だ。

 確かに、この批判はもっともらしいものであり、多くの人はこの見解を支持するだろう。私もそう思う。しかし、この見解を受けれるためには、ベネフィットの側面も考慮することによって、さらに取引コスト理論の説明力が増加することを示す必要があるのだ。コストの側面だけでしか考慮していない取引コスト理論では説明できない現象を、べンフィットを考慮することによって説明できることを証明する必要があるのだ。

 このことを怠って、ただ論理的にコストがあれば、対称的にベネフィットもあり、それを考慮すべきだというのでは、数学的論理学的であっても、経験科学的ではないのだ。

 ところで、私はある現象を説明するためには、やはり取引コストだけでいいという考えを持っている。それは、企業の垂直的統合という現象だ。

 垂直的統合をめぐっては、それが独占化を進める現象なのかどうかが最大の焦点の一つである。もしこの現象を生産効率を高める現象、ベネフィットを高める現象、効率性を高める現象とみなすならば、それは独占化を進展させる現象として、独占禁止法の適用を促すことになるだろう。

 ところが、ウリアムソンはこの現象には生産効率やベネフィットはないということ、むしろ効率性の観点からすると、個々の部品供給会社が多数の企業と取引できず、ひとつの企業だけに部品供給することになるので、規模の経済性を失うとした。だから、独占禁止法を適用する必要はないということになる。

 ではなぜ垂直統合するのか。それは、ベネフィットはないが、コストが発生するからだというのだ。つまり、企業間で不必要な駆け引きが起こり、不必要な取引コストが異常に高くなるということだ。このコストがあまりにも高い場合には、たとえ生産効率が下がっても、たとえベネフィットを失っても、垂直的に統合することになる。これがウリアムソンの主張である。

 ベイネフィット(B>0)の概念を取り入れると、この現象は説明しにくいかもしれない。

 また、以上のことから、なぜ私が拙著『戦略学』ダイヤモンド社で、実在世界を三つに区別し、その三つの世界に人間は生きていると仮定して議論したほうがいいとしているのか、理解していただきたい。

 近いうちに、このようなキュービックな人間観にもとづく新しい理論の構想をみなさんに紹介したい。私の研究に関心のある人は、すでに『三田商学研究』での論文からその構想に気づいているかもしれませんが・・・・・・

 

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