学問的センス
学生をみていて、彼はあるいは彼女は学問的センスがあるなあ~と思うことがある。逆に、彼は駄目だなというメルクマールがある。
それは、言明と実在との区別だ。机という実在と「机」という言葉の違いだ。
われわれは、机という本当は何かわからない実在に対して、「机」という言葉を押しあてているのだ。この実在と言葉の違いを区別できず、言葉がそのまま実在のように扱っている人はセンスがないのだ。「コーポレート・ガバナンス」という言葉とそれに対応する実在とをゴジャゴジャにする人はもうだめだ。
この区別が理解できない人は経験科学的意味での真理というものが不明確になる。真理とは、言明と実在との一致なのだ。
このような真理の定義(タルスキーによる定義)を行うと、われわれ人間は真理を確定できないことがわかる。
実在と言明が一致したかどうかを論証するのには、言明が必要となり、さらにその言明が実在と一致しているのかどうかを論証する必要があり、そのためにさらなる言明が必要となるのだ。こうして、無限後退し、真理は確定できない。
こうしてある言明が真理かどうかは、人間は確定できす、みんなで議論して、いまのところ間違いがない程度にしか言明を正当化できないことがわかる。
この瞬間、「客観的」という言葉の意味は真理ではなく、「相互主観的あるいは間主観的にいまのところ間違いがない」という意味に変化した。
さて、言明と実在の区別ができる人は、アインシュタインの論文の展開に関心をもつだろう。もちろん、私は物理学がまったくわからない。しかし、彼のある論文の論証の仕方が以下のようなものではないかと読み取った。(以下はあくまで論証のイメージで、アインシュタイの量子力学とはなんの関係もない)
まず、ある実在Aをめぐって以下の式が成り立つ。
A=Xλ(波動)
同じ実在Aを別の観点からみると、以下の式が成り立つ。
A=ym(量)
ここで、もし実在Aというものが一つしかないとすれば、以下の式が成り立つことになる。
xλ=ym
こうして、アインシュタインは新しい式を発見するとともに、迷宮に導かれて行く。この式が対象としている実在Aが波の特徴と量子の特徴をもつという難問だ。イメージできないのだ。波と量子は異なる実在なのだ。この分野のマニアは、この問題が実はいまでも解けないことを知っているだろう。
いずれにせよ。言明と実在の区別ができる人はセンスがいい。その逆はダメ。
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