経営哲学とは
経営哲学というと、多くの人はCSR、企業の社会的責任論、経営理念などいろいろと思い浮かぶかもしれない。
そもそも経営哲学というのは何?というかもしれない。その定義が難しいから、定義の問題を避けようとする人も多い。
これに関して、私の答えは簡単だ。「経営をめぐる言明で経験的に反駁できないような言明や議論は、すべて経営哲学だ。」
たとえば、「経営理念が浸透しているような企業ほど企業の業績が高い」という議論は「業績が高い企業で経営理念が浸透していない企業は存在しない」という命題に変形できる。するとこの命題は経験的に反駁されうる可能性があることがわかるだろう。このような命題は経営哲学ではなく、経営をめぐる経験科学的議論なのだ。
私の考える経営哲学的議論とはこうだ。
命題1「企業経営者は積極的に自由意思を行使して行動し、その行動の責任を負うべきだ!」
この命題を実践すると、たとえば以下のようになる。
命題2「So・yの社長としてアダルトソフト製品まで販売してゲーム業界に生き残る気はまったくない。この私のわがままの結果に対する責任は、他でもなく私がとる」
命題1は経験的にその妥当性を証明することはできないものだ。何よりもそれにもとづいて命題2として実践することが必要なのだ。このような命題をめぐって議論をするのが経営哲学なのだ。
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戦後の日本経済をささえてきた偉大な経営者たち、特に東京大学出身の経営者の多くは実はデンカンショ世代だと言われている。
デカンショとは、デカルト、カント、ショーペンハウエルのことだ。とくに、カント哲学が日本では人気があったらしい。カンテリアンとしての企業経営者が日本経済を支えてきたのだ。
これに対して、最近の企業人や経営者は哲学書を読んでいない。表面的な効率性を追求するような本ばかり読んでいるのかもしれない。それが現在のはやりだ。
このような傾向に少しでも抵抗したいので、これからは何とかして経営哲学上でカントを復活させたいと思う。
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