論文は量か質か
大学では、よく知られているように、卒業論文というものを書く。この卒論をめぐって、大学の教員間で話し合いをすると、面白い議論が起こるものだ。とくに、文科系の教員では。
私の経験では、議論は二つのグループに分かれる。第一のグループは、とにかく量を求める人たちだ。卒論、修士論文、博士論文、すべて最低要件は量だという人たちだ。もう一方のグループはあえて量を求めない。内容がよろければ、短くていもいい。内容がなければ、取り柄がないので量ぐらい多くした方がいいというグループだ。
私は後者のグループの人間なので、前者に立つ人たちの本当の理由はわからない。やはり文科系というのは、カントやヘーゲルなどの大論文をイメージするのだろうか。
後者の理由は、簡単だ。論文の良し悪しは量とは関係ないのだ。むしろ、長い論文はたいてい内容にしまりがなく、だらしない、しかも無駄が多い場合が多い。しかも、そのような論文を書いても、役に立たないのだ。
役に立たないという意味は、現在、経済学、経営学分野では、いかにして有名なジャーナルに論文を投稿して掲載されるかの時代で、今後もその傾向は強まる。ジャーナルでは長い論文は最初から拒否されるからだ。
したがって、将来、学者になるならば、当然、修士論文はジャーナルを意識したものであるべきで、短い論文を2,3本をくっ付けたものがよいのだ。それは締まりのある修士論文であり、理科系の研究は大抵そのようなものだと認識している。
博士論文も同様だ。理科系では、査読付きジャーナルに掲載された3本以上の論文をまとめて博士論文となるケースが多い。その方式は、非常に明快だ。これに対して、文系でレベルの低い博士論文は査読論文なしで、紀要の寄せ集めで、量だけ多く、御苦労様というケースが多い。
私は個人的にもうこんな方式は止めてほしいと思っている。私の時代だけでいいのだ。このような世界は、審査に容易に権威や政治を持ち込むことになるのだ。
以上のような理由で、拙著『戦略学』に関して「量が少ない」というコメントがあるが、そのようなコメントにはいくぶん不満がある。
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