私のクラウゼヴィッツ解釈の意図
拙著『戦略学』でも、DHBRでの拙稿「クラウゼヴィッツかリデル・ハート」でも、私はリデル・ハートよりのクラウゼヴィッツ解釈を展開した。
もちろん、リデル・ハートがクラウゼヴィッツの戦略論をハードな直接アプローチ戦略として解釈し、そのクラウゼヴィッツ解釈が誤りである、と多くの研究者が指摘していることも十分知っている。
しかし、それにもかかわらず、私はリデル・ハートのクラウゼヴィッツ解釈に近い立場にいる。
なぜか。
確かに、クラウゼヴィッツの『戦争論』を読めば、彼の戦略思想がリデル・ハートがいうように直接アプローチ一辺倒ではないし、ハードな戦略思想だけでもない。ましてや、私が指摘しているように、クラウゼヴィッツが一貫して人間の完全合理性を仮定し、物理的肉体的一元論を体系的に展開しているわけではない。
しかし、だからといって、リデル・ハートのクラウゼヴィッツ解釈も私のクラウゼヴィッツ解釈も完全に間違っているとは思わない。その理由はこうだ。
クラウゼヴィッツの『戦争論』は、多くの人たちが知っているように、完全に未完の書であり、バラバラであり、体系的に洗練化されているわけではない。それは、のちに婦人によって編集されたものであり、それゆえそれ自体は非常に不完全でばらばらな内容なのだ。
そこで、リデル・ハートと私が行ったことは、もしもクラウゼヴィッツの議論を論理一貫させ、体系的に彼の議論を洗練化すれば、おそらく彼の議論の本質は直接アプローチ戦略であり、完全合理性の観点に立った議論であり、物理的肉体的世界観に立った議論になるだろうということなのだ。
彼の『戦争論』は、真面目にそのまま読めば、それほど単純ではなし、内容が複雑でシンプルではない。あれもこれも、いろんなことを述べている。そんなことは、十分わかっていることなのだ。それは美しく整理されているわけではないのだ。
しかし、そのようなクラウゼヴィッツの戦争論の素朴な解釈は決して得ではない。結局、クラウゼヴィッツはあれもこれも述べており、戦争に関してすべてを述べていることになり、論理学的にいえば、それは結局何も述べていないことと同じことになってしまうのだ。
「クラウゼヴィッツは直接アプローチも述べているし、非直接アプローチも述べている。」
「クラウゼヴィッツは完全合理性の立場に立って議論している場合もあるし、非完全合理性の立場に立っている場合もある。」
もしこのような形でクラウゼヴィッツの戦争論を擁護するならば、それは擁護しているのではなく、彼の議論を経験的内容がない(ゼロ)ものにしていることになるのだ。そういった解釈をしていることになるのだ。
「明日の天気は晴れか曇りか雨である」といっているのと同じなのだ。それは、経験的にテストする意味のない、それゆえ経験的内容のない言明なのだ。
以上のような意図があって、私はあえてクラウゼヴィッツに関して大胆で極端な解釈を意図的に展開しているということをどうか理解してほしい。
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