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2008年5月25日 (日)

経営哲学者としてのCSR

 今回は、CSRに関する私の見解第二弾です。つまり、経営哲学者としてCSRについて述べたい。

 CSRとは企業の社会的「責任」である。今日、どこの学会でも、CSRをテーマにした報告は必ずある。そして、そのような本もたくさんある。そして、CSRを語るいかがわしい学者がたくさんいる。また、CSR活動を重視していると宣伝する会社もたくさんある。

 しかし、経営哲学者として私は、いま多くの研究者や会社が説明している議論にはとても不満だ。なぜか。哲学的にいえば、とくに私はカント哲学に立つのだが、「責任」という概念は単独の独立した概念ではないからだ。

 「責任」と「自由」はセット、対概念なのだ。その関係は、以下の通り。

(1)自由=人間は自らの意志を唯一の原因としてある行為を行うことができる。それは、自分の意志以外に原因がないので、自律的行為であり、それが人間の「自由」だ。(誰かに言われたので、私は行動した。これは自分の外に行動の原因があるので、そのような行動は他律的行動という。それはAならばB、BならばCの因果的行動)

(2)責任=以上のような意味で、人間が自由な行動をして、失敗したらその結果に対する責任は他でもなく、自分にある。というのも、自分の意志がその行為の唯一の原因だからである。それが「責任」だ。(他律的行動には、責任の概念は成り立たない。原因が無限にさかのぼれるからである)

 

Knt

以上がカントの道徳哲学(実践理性の哲学)であるが、この観点からすると、社会に対して「自由」を勇気をもって行使していない企業に、「社会的責任」など感じるはずがないのだ。

 自由の意味を認識しないで、「社会的責任」論など、チャンチャラおかしい!!!!もっと真剣に哲学を勉強してほしい!!!!!!!

そんな会社は、カントの言葉でいうと、啓蒙されてない会社なのだ。怖くて、自由意思にもとづく行為ができていないのだ。そんな未成年に「責任」なんか問えるわけがないのだ。

もし「社会的責任」ある行為をしたいなら、その前に社会に対して「自由」な行為を起こしてほしいものだ。それは、たとえば「もうからなくても、わが社はこれをやる。その責任はほかでもなく、わが社にある・・・・」という行為だ。

 以上の意味、難しいかなあ。たぶん私のブログで、「命令違反が組織を伸ばす」をめぐって、私がこれまでなんども述べていたことを理解している人は上記の意味がわかるかな。

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コメント

笑えました。
日本のCSRは
「責任」が発生しないようにする行動
に思えます。
都知事から一般従業員まで、
官公庁から企業まで、
全てこの方式で生きているように思えます。

この国では
「個人の意思による自由行動」を
悪としていませんか。
私が笑われる?

株式会社が営利事業を目的として存在している以上その意思は営利を目的としている限り自由でしょう。従って「責任」と「自由」はセットでありながら「責任」は「営利」とセットでなければならないはずです。もはや現代的な意味はないとされた法人の本質をめぐる「法人擬制説」と「法人実在説」の論争を再評価すべき時代になったのかもしれないですね。

fuji様
菊澤です。

「自由」と「責任」をセットにし、「責任」を企業の最低維持の「利益」ととらえたのは、P・ドラッカーですね。

 彼は、ドイツ系なので、ドイツの哲学をよく知っていました。

 自由なきナチズムの世界を逃れてイギリスを経て、アメリカにやってきましたが、当時の世襲制で満ちた米国産業界にも「自由」はなかったと嘆きました。

 そして、産業人は自由にイノベーションをしろ、そしてその責任を果たせ、と叫んでいたんですね。この頃のドラッカーは素晴らしいですね。

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