吸いこまれてしまいそうなゲーム論の美しさ
もうかなり前になってしまったのだが、3月13日に法政大学でシンポジュウムがあり、そこに経営学者として招待された。
このシンポジュウムは、ガバナンスをめぐって、経済学者、経営学者、行政学者、政治学者がインターディシプリナリーに議論するというものだった。
http://www.hosei.ac.jp/news/shosai/news_620.html
ここで、久し振りに他分野の研究者の話を聞いたが、やはりゲーム論の理論的というか論理的というかその美しさは際だっており、その数学的な美しさに吸いこまれそうだった。何かとても懐かしく、またハッピーな気分になった。
もちろん、数理モデルと現実との対応関係(意味論:セマンティックス)には若干問題はあるものの、その論理展開自体(構文論:シンタックス)の美しさは非常に魅力的だ。その魅力に負けて、私もついつい経営学に応用してみたいという欲望が出てしまう。つまり、T.クーンの用語でいえば、パズル解きだ。
しかし、この道は危険だ。いくらこの道を進んでも、頭がいい人たちが山ほどいる。この世界で勝負などとうていできるわけがないのだ。この世界の上位の人たちはほとんどが数学者に近いのだ。ゲーム論は体系がしっかりしているので、ほんの一部の人たちが学問の進歩に貢献し、その他の人々はただそれを理解し、学んでいるだけだ。それはあまりにもむなしい。それならば、どろどろしたいかがわしい経営学の世界の方がはるかに面白いのだ。
昔、数理経済学が盛んな時に、この道をあきらめたのだ。近づいてはならない危険な道だ。私は、あくまでも現実対応志向の体系的ではない、しかもゲリラ的な研究を進めるのだ。私は、あくまでもデムゼッツやアルチャンのようなシカゴ的なスタイルでいくんだ。私は人間の完全合理性ではなく、人間の限定合理性の立場にたち、F.ナイトの意味で「リスク」ではなく、あくまでも「不確実性」を扱う研究者なのだ・・・・・
こう自分に言い聞かせながらも、なんとなく懐かしく、何かハッピーな気分で帰宅した。
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しっかりとドメインを追求されているところなど、先生ならではの戦略的センスではと思います。
知識のコングロマリットは人生という限られた時間では、到達することは難しいかも知れません。
そうではなく、ドメインの中で、その分野の”匠”となることをきっと目指されているのだと感じました。
”匠”の技には、美しさが宿っていると思います。そこが、切れ味となると思います。
抽象的ですが・・・。
投稿: Sato | 2008年4月 2日 (水) 午前 12時56分
菊澤です。
コメント、ありがとうございます。
このような生き方をしている人物の一人として、取引コスト理論の第一人者、ウイリアムソンがいます。
彼は、若い時は、非常に多くの難解な数理モデルを使った論文を書いています。しかし、取引コスト理論と出会い、その魅力に取りつかれて以降は、あえて数学的表現を使わずに、彼は論文を書いています。
そこも、彼の魅力ですね。
投稿: 菊澤 | 2008年4月 2日 (水) 午前 09時29分