京都でのコンファレンス
先日、京都で、経営哲学をめぐる座会に出席した。京セラの関係者とPHPの関係者が集まり、稲盛哲学と松下哲学を中心に議論が展開され、とても有意義であった。
私自身はまだ真剣に経営哲学について研究を進めているわけではないのだが、関心は常に持っている。稲盛経営哲学や松下経営哲学それ自体には、本音をいえば、まだ強い関心をもってるわけでわない。
むしろ、私は経営哲学の内容自体より、なぜ経営者が哲学を必要とするのか。その理由を知ることに関心があるのだ。
私は、多くの経営者は利益を追求することだけを考えていると思う。そして、ほとんどがそれで終わったり、倒産したり、失敗したりして終わるのがほとんどだと思う。利益追求の領域を超えて、哲学まで追求できる経営者は選ばれた人たちだと思う。
さて、私が考える経営哲学の必要性は以下の通りだ。まず徹底的に利益追求することが基本だ。その過程で、疑問がでるのだ。そこで、哲学と遭遇するのだと思う。
(1)進化経済学的考え(A.A.アルチャン)
アルチャンによると、太陽に向かって伸びる植物は日のあたるところに養分を集中し、当たらないところに養分を送らないのではなく、偶然、日にあたっているところが伸びているだけだとする。これがダーウインの進化論なのだ。
同様に、企業も選択と集中の原理に従って行動したり、社会的責任ある行動をしたから成長したのではなく、偶然、成功したのだ。それを決定するのは、経営者ではなく、社会システムであり、環境なのだ。それは、偶然であり、運なのだ。産業組織論的にいえば、多様で、リスク負担してまで行動する企業の集合さえ存在すれば、ある企業が偶然社会システムによって選択され成功し、産業が維持発展することになるのだ。
しかし、だからといって、企業経営者はニヒリスティックになる必要はない。やはり、環境に適応する努力は必要なのだ。努力しないと、運を獲得することはできないのだ。
しかし、その努力はむなしいものになるかもしれない。それでも、努力するには、何か信念や宗教倫理(エートス)が必要となるのかもしれない。
(2)カント的考え
カントによると、人間は動物的な側面があるのだ。動物的というのは、因果法則にしたがって行動するということだ。自分以外のものが原因になって行動するということだ。たとえば、誰かが叩けば動物は動くのだ。経営者でいうと、利益やお金のために行動することだ。それは、他の原因が行動を律するという意味で、他律的な行動だ。
しかし、カントによると、人間はこのような行動を徹底しようとしても、人間はこのような行動に疑問を抱く理性があるというのだ。お金儲けに走ると、心の中で「これでいいのか」という理性の声が聞こえてくるというのだ。このような理性の声にしたがう行動は、因果法則に従わず、自分からはじめ、自分以外に原因のない自律的な行動であり、それを自由な行動という。このような自由な行動の研究を行うのが哲学なのだ。それは因果法則を研究する経験科学とは異なるのだ。
経営哲学でいえば、金もう儲けに走る経営者にも「これでいいのか」とう理性の声が聞こえてくるのであり、そのような理性の声を研究するのが、経営哲学だといえるだろう。
(3)企業倫理的考え
上記のカントの議論と本質は同じだが、ビジネスにはお金儲けに徹しきれないビジネスがある。例として、地雷を製造販売してまで利益を追求することができるのか。アダルト・ビジネスをしても利益を追求するのかという心の疑念が存在し、それが何かを探ること。そこに経営哲学が必要なのかもしれない。
(4)常識的に
企業が成功しているときには、たくさんの必ず甘い話が経営者にやってくる。このときがもっとも危険だ。甘い話にだまされないように、しっかりした理念・哲学が必要なのだ。
以上が経営哲学の必要性だ。
ところで、あなたはいま軍隊の司令官だとしよう。ある戦いで、あなたは部下の大半を失っても勝利を獲得したいと思うだろうか。あるいは、勝利を逃しても部下の多くを生存させようとするだろうか。
この質問を、かつて米軍陸軍士官学校のウエスト・ポイントでしたところ、・・・・・・・・・・であった。
(疲れてきたので、後で内容を書きます。)
























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