アカデミックな不器用さ
大学の教師になって、たくさんの学生をみてきたが、成績優秀者は必ずしも学者的頭脳をもっているとはいえない例に出くわす。もちろん、成績優秀で学者的な頭脳をもっている学生もいる。こういった学生はもちろん一番すばらしい。
しかし、違っているということはどういうことか。最も大きな違いは、論文や本の内容に関する読み込みの深さに違いがある。成績は優秀だが、学者的ではない人は何でも簡単に理解して行くので、読み込みが浅いケースが意外に多い。つまり、軽いのだ。
だから、あれもこれも器用に読みこなし、あれもこれも使いたがる。これは危険だ。大抵、偉い人の学説を並列的に並べると、相互に矛盾するケースが多いので、自己破綻するような論文に導かれるケースが多いのだ。
このように考えると、学者的な頭脳とはいくぶん不器用な脳だということになる。あれもこれも器用に理解できず、何度もつまずいて立ち止まってしまうような脳みそだ。
たとえば、単なる秀才は、経済学の用語で「市場とは効率的資源配分システムである」という用語をさらりと理解してしまうだろう。しかし、不器用な脳はこの文章に立ち止まってしまうのだ。「効率的資源配分??どいうこと?」また、「パレート最適とは、これ以上自分の効用を高めようとすると、他人の効用が下がる状態のことである。あるいは他人の効用を下げることなくして、自分の効用を高めることはできない状態」これってどういうこと??
私の頭脳はどうも器用ではないので、本を読むのが遅く、すぐに立ち止まってしまう傾向がある。(いまでは、これに対処する方法も身につけた)そして、もしかしたら、私と同じような脳をもっているのではないかと僭越にも思った学者がいる。それゆえ、若いとき、その学者の本が大好きだった。
その学者とは、故森嶋通夫である。
森嶋通夫の本を読んだとき、本当に感動した。私が不思議に思ってつまずいていたことについて、しつこく説明しているからだ。すばらしいと思ったし、なんてダサい人だと思った。数学的証明も、根岸先生のようにスマートではないが、とても魅力的だ。きっと、同じところにつまずきながら、一つ一つ自分で解釈していったんだなあと思ったことが何度もある。
好きな本の一つは、産業連関分析の本だ。
さて、同じような意味で読みの深さという点では、何といっても所有権理論の開発者であるデムゼッツやアルチャンたちが素晴らしい。彼らの論文は、すべて読み深さから生まれてくるものであり、彼らの英知が生み出す新しい解釈にわれわれは驚かされる。
たとえば、市場と組織を区別するコースに対して、彼らはその区別は重要ではないと指摘した。彼らによると、組織内で部下が上司の命令に従うことと、市場取引としてある商店がお客の注文に答えることは本質的に同じだとした。組織内で命令に違反すれば部下はクビになり、市場で注文に答えなければその商店は無視されることになる。それゆえ、コースのいう市場と組織は本質は同じであり、その区別はたいした問題ではないと主張した。
私もこういったアカデミックな不器用さを絶えず磨いていきたいと思う。
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