良いトートロジーと悪いトートロジー
「悪い結果論と良い結果論」という先のブログ記事に続いて、よく素人様が批判するときに口にするトートロジー(同語反復)という言葉についても、ひとこと申し上げたい。
「君の意見はトートロジー(同語反復)だよ」「だから意味がないし、ナンセンスだよ」
よく学生の卒論を聞いて、こんな論評をする人(先生?学生?)がいる。また、学会にもいる。しかし、トートロジーということば、それほど悪い意味ではないのだ。悪い意味で使用する場合は非常に限定されている。
以下のケースが悪い場合であり、めったに出くわさない。
「白いは白い」、「犬は犬である」、「菊澤は菊澤である」
文字通り、同語反復であり、このような命題は意味がないといっていいだろう。これは実在と対応しない命題であり、それは実在と対応させることなく、そのまま真理なので、言う必要がないのに言っているので、意味がないのだ。
言ってみることに意味のある命題は、実在との関係を経験的にテストできる可能性のある以下のような「綜合命題」なのだ。これは、主語と述語が無関係なのに、なぜか結びつくもので、知識を綜合的に拡張する。だから「綜合的命題」という。
「人を火で焼くと、必ず死ぬ」
「カラスが鳴く日には、必ず人が死ぬ」
「人を火で焼く」と「人が死ぬ」は言語的に無関係なので、綜合的である。「カラスが鳴く日」と「必ず人が死ぬ」は無関係である。だから、実在と対応させたくなる。
そして、このような綜合命題は、以下のような経験的にテスト可能な禁止命題に変換できる。禁止命題とは、事象の発生や存在を禁止する命題のことである。
「火で焼いて死なない人は存在しない」
「人が死ぬ日で、カラスが鳴かない日は存在しない」
これらは、経験的にテストしたくなるような命題であり、まさに経験的に意味のある命題なのだ。
これに対して、同語反復命題は何も禁止しないので、経験的にテストできないのだ。「白いは白い」という言明を禁止命題に変換することはできないのだ。それは何も禁止していないのだ。
しかし、以下のような命題もトートロージなのだ。
「2は1と1からなっている」
「白鳥は白いと鳥から構成されている」
「5=1+2+1」
「明日の天気は晴れか曇りか雨である」
これらも同語反復である。これは、主語の中身を述語がより明確にしているだけであり、「分析命題」と呼ぶ。つまり、経験的な意味はないが(経験的なテストは不要で、それ自体は真である)、より明確に正確にしているという意味で、実は意味があるのだ。これは良いトートロジーである。
よく論文のタイトルで、「***の分析」というのはこういう意味だ。数字の5を分析すると、2と3に分析される。さらに、2は1と1に分析され、3は1と2に分析される。さらに2は1と1に分析される。つまり、5という中身を明確にするという意味で、分析は意味があり、トートロジーでも意味があるのだ。
トートロジーという言葉で批判しているケースをみると、「白いは白い」というハードなケースはほとんどないので、それは批判されるべきではない。批判している方が無知なだけだ、と私は言いたい。
しかし、論文のタイトルが「***の分析」としながら、綜合命題(新しい仮説)を提案しているのは意味論的矛盾である。つまり、言っていることとやっていることが異なるという意味で、矛盾しているケースはときどき出くわす。
「意味論(セマンティックス)」とは=言明と実在の一致を研究する学問
意味論的矛盾の例=「この文章は10文字からなっている」(10文字以上)バートランドラッセルが発見した。
「構文論(シンタックス)」とは=時空間が限定された言明から時空間が無制限な普遍言明に至るロジックを研究する学問
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