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2007年12月

2007年12月28日 (金)

センスのいいオヤジにビックリ

 若者のファッションで、もう古くなったかもしれないが、ジーンズをだぶだぶにはいて、腰までおろす、そういったファッションがあることは私でも知っている。私のゼミでも一人そういったファッションをしている学生がいた。

 私は、個人的には好きがファッションではないが、否定する気はまったくない。ニューヨークでもそういったファッションをよく見た。

 問題はここからだ。

現在、八王子の中央大学に非常勤講師として講義をしているのだが、ある朝、いつも通り、中央大学駅は混んでいた。電車を降りて、いつもの通り、混雑したエスカレターに乗る。そして、ふと、前のジーンズをはいている人をみた。

驚いた。後ろ姿から、かなりの年配の男性に見えるが、あのだぶだぶのファッションだ。だぶだぶにジーンズをはいて、オシリがでそうなくらいに下がっている。

何度もいうように、私は個人的にこのファッションは好きではないのだが、この年齢でこのようなファッションをするその心意気というか、センスというか、勇気というか、何かそんなものに心をうたれた。

「私もあんな風に、心を若くもって、生きたいものだ」と心に思い、今日は朝から良い日だと思った。

エレベータも終わり、前の男性と私は前後に平面上に立った。そして、私は足早に、前の男性を追い抜き、改札口に向かって分かったことがある。

その男性のファッションはファッションではなく、単にズボンがさがっていたのだ。

がっくり。ちゃんとジーンズをはけ! このオヤジ! 私はそのようなファッションは認めないぞ!

瞬時にして、ファンションの超保守主義になってしまった私がそこにいた。

2007年12月26日 (水)

良いトートロジーと悪いトートロジー

 「悪い結果論と良い結果論」という先のブログ記事に続いて、よく素人様が批判するときに口にするトートロジー(同語反復)という言葉についても、ひとこと申し上げたい。

 「君の意見はトートロジー(同語反復)だよ」「だから意味がないし、ナンセンスだよ」

 よく学生の卒論を聞いて、こんな論評をする人(先生?学生?)がいる。また、学会にもいる。しかし、トートロジーということば、それほど悪い意味ではないのだ。悪い意味で使用する場合は非常に限定されている。

 以下のケースが悪い場合であり、めったに出くわさない。

 「白いは白い」、「犬は犬である」、「菊澤は菊澤である」

文字通り、同語反復であり、このような命題は意味がないといっていいだろう。これは実在と対応しない命題であり、それは実在と対応させることなく、そのまま真理なので、言う必要がないのに言っているので、意味がないのだ。

 言ってみることに意味のある命題は、実在との関係を経験的にテストできる可能性のある以下のような「綜合命題」なのだ。これは、主語と述語が無関係なのに、なぜか結びつくもので、知識を綜合的に拡張する。だから「綜合的命題」という。

 「人を火で焼くと、必ず死ぬ」

 「カラスが鳴く日には、必ず人が死ぬ」

「人を火で焼く」と「人が死ぬ」は言語的に無関係なので、綜合的である。「カラスが鳴く日」と「必ず人が死ぬ」は無関係である。だから、実在と対応させたくなる。

そして、このような綜合命題は、以下のような経験的にテスト可能な禁止命題に変換できる。禁止命題とは、事象の発生や存在を禁止する命題のことである。

「火で焼いて死なない人は存在しない」

「人が死ぬ日で、カラスが鳴かない日は存在しない」

これらは、経験的にテストしたくなるような命題であり、まさに経験的に意味のある命題なのだ。

 これに対して、同語反復命題は何も禁止しないので、経験的にテストできないのだ。「白いは白い」という言明を禁止命題に変換することはできないのだ。それは何も禁止していないのだ。

 しかし、以下のような命題もトートロージなのだ。

「2は1と1からなっている」

「白鳥は白いと鳥から構成されている」

「5=1+2+1」

「明日の天気は晴れか曇りか雨である」

 これらも同語反復である。これは、主語の中身を述語がより明確にしているだけであり、「分析命題」と呼ぶ。つまり、経験的な意味はないが(経験的なテストは不要で、それ自体は真である)、より明確に正確にしているという意味で、実は意味があるのだ。これは良いトートロジーである。

 よく論文のタイトルで、「***の分析」というのはこういう意味だ。数字の5を分析すると、2と3に分析される。さらに、2は1と1に分析され、3は1と2に分析される。さらに2は1と1に分析される。つまり、5という中身を明確にするという意味で、分析は意味があり、トートロジーでも意味があるのだ。

 トートロジーという言葉で批判しているケースをみると、「白いは白い」というハードなケースはほとんどないので、それは批判されるべきではない。批判している方が無知なだけだ、と私は言いたい。

 しかし、論文のタイトルが「***の分析」としながら、綜合命題(新しい仮説)を提案しているのは意味論的矛盾である。つまり、言っていることとやっていることが異なるという意味で、矛盾しているケースはときどき出くわす。

「意味論(セマンティックス)」とは=言明と実在の一致を研究する学問

意味論的矛盾の例=「この文章は10文字からなっている」(10文字以上)バートランドラッセルが発見した。

「構文論(シンタックス)」とは=時空間が限定された言明から時空間が無制限な普遍言明に至るロジックを研究する学問

悪い結果論と良い結果論

 拙著『命令違反は組織を伸ばす』(光文社新書)をめぐる論評で、素人様がよく述べるのは、これは「結果論」だということです。

 歴史を説明すること、現実を説明することは、実はすべて結果論です。与えられた事実を既存の理論で説明することだからです。それ以外に、何を求めるのでしょうか?

 問題は、結果論でもすでに理論的に説明されていることならば、「つまらない結果論」、まだ既存の理論で説明されていない結果論ならば、「おもしろい新しい結果論」となります。

 私の知るところでは、インパール作戦で「なぜ当初牟田口中将は作戦に反対し、その後作戦を推進したのか」、その歴史的な事実は実はまだ理論的にうまく説明されていません。それをやって見せたという点が、今回の本の意義でなのです。

 しかし、この説明は単なる結果論ではありません。行動経済学という新しい理論にもとづいているので、将来を予測することもできますし、過去を推測することもできます。もし牟田口が当時プラスの心境にいたならば、相変わらずインパール作戦を拒否していただろうと。

 また、勝ち続けている投資家はこれ以上投資せず、利益を確定してしまうだろうとか、さらにマージャンで負け続けている友人は「勝ち逃げは許さん」といってなかなかマージャンを終わりにしてくれないだろうとか、いろいろ予測もできるのです。

 そして反証されれば、もっと良い理論があるということなので、知識は進歩するのです。ですから、歴史の中に、牟田口と同じ状況に置かれていたのに違う行動を取っている人物を探せば、私の説明は反証されるのです。

 ということで、私の今回の説明は反証可能性をもっており、K・R・ポパーのいう科学的な説明になっているのです。それは、われわれの知識を成長させる可能性のある科学的な歴史説明なのです。

 いかがでしょう。これも、結果論でしょうか。

2007年12月23日 (日)

講演会

 先日、私の先輩が社長をしている企業の忘年会というか、クリスマス・パティーというか、そこで講演することを頼まれて、講演を行った。その会の規模は大きく、850人くらいの会社員が集まっていた。

 さて、前回の話の続編のように思えるが、私の講演前に私の先輩である社長が私のことをわざわざ紹介してくれることになっていたのだ。そこで、事前の打ち合わせて、先輩が

「菊澤君、君の今度の新書を読むまで、君の名前が(ケンシュウ)だとは知らなかったよ。いままで、ずっと(ケンソウ)だと思っていたので、驚いたよ」

と話をしていた。

 前回お話した通り、私の名前をケンソウと思っていた人はここにもいたんだなと思いながら、さすが先輩だなあ、事前に名前を確認してくれるなんて、やっパリ企業人は違うなあ~と思った。

 さて、本番がはじまり、先輩による私の紹介がはじまった。その第一声はこうだ。

 「私の大学の後輩の菊澤ケンソウ、・・・ソウ・・・ケンシュウ君です。」

 カンデしまった。アレー!!!!習慣というのはなかなか変えるのは難しいものだと思った。

2007年12月22日 (土)

日本経営学会でのコメンテータ

 12月15日に日本経営学会関東部会で、コメンテータをした。

今回のテーマは、公共経営に関する内容のシンポジュムで、私はこの分野での専門外ではあるが、コメンテータを行った。

1990年代から、公共経営学(行政学)は、ニュー・パブリック・マネジメントとの名前のもとに新しい展開をしているのだ。より明確により多く民間経営の手法を取り入れるという動きだ。

とくに、ニュー・パブリック・マネジメントは実は「新制度派経済学」を理論的基礎としているので、どうも私が呼ばれたようだ。

3人の先生方が報告した。1人は行政学の先生、1人は社会学系の先生、1人はドイツの先生であった。みなどちらかという日本経営学会外の人たちという感じだ。

私は、日本経営学会にそれほど関心がないのだが、このように外部の人たちで学会の発表が構成されると、なぜか、「他の分野の先生に経営学会のレベルが低いと思われてはいけない」とう気持ちになってしまうものだ。

 さて、今回、司会は日本大学の桜井先生が担当されていたが、私を最初に紹介してくれたときに、私の名前を間違えて発音した。

        「菊澤研宗(誤り キクザワ ケンソウ)」

          (正しくは、キクザワケンシュウ)

すると、会場のどこかで「ケンソウだったんだ」という声が聞こえた。私は心の中で(ケンソウではなく、ケンシュウだぞ!!!!)と叫んだ。

私は観客席にいたので、直ぐに訂正できず、(私が「コメント」するとき、もう一度私を紹介してくれるだろう。そして、そのとき、きっともう一度間違えるだろう。そうすれば、コメントする最初でのところで、「私はケンソウではなく、ケンシュウです」といって、笑いでもとろうか)と考えた。

そして、私がコメントするときがやってきた。司会の桜井先生は以下のようにいった。

「では、コメンテータの菊澤先生、よろしくお願いします」

なんで間違えてくれないの?

2007年12月 5日 (水)

上海での国際シンポ参加

 11月30日から12月2日まで上海で開催された国際シンポに呼ばれて、久しぶりに上海にいった。

Photo_4

このシンポジウムは非常に多くの人々が中国全土から集まり、外国人は日本人、ドイツ人、米国人、カナダ人、フィンランド人などがわずかに参加していた。私もその一人であった。

 Photo_3 今回の国際シンポでは、現在の中国の人たちのある側面をみた思いがした。今回は、上海到着から帰国までとにかくすべてセットされており、ものすごい歓迎の仕方であった。すべて上海市がお金を出してくれたもので、上海市はお金持ちなのだなあと思った。

 特に、興味深かったのは、われわれの渡航費を「元」で支払ってくれると思っていたが、なんと「ユーロ」で支払ってくれたことだ。驚いた。

 さらに、国際シンポの前夜祭のパーティでも、シンポの開始でもおどろいたことがあった。それは、まだすべての人々が席についていないにもかかわらず、来ない人を無視して勝手に会が始まって行くというパターンだ。面白い。やはり、中国はたくさん人がいるから、その程度のことは無視してゆくのだろうなあと思ってしまった。

 Photo 私のなどは貧乏性だから、ディナーのときなどは、まだたくさん席が空いているから、待てばいいのにと思ってしまうのだ。イメージとしては結婚式の披露宴で、丸いテーブルの2つぐらい空席になっている状況を想像してほしい。それでも、会は勝手に進行してゆくのだ。20%の欠席は当たり前という感じ。

 シンポの内容としては、揚子江デルタ地帯の発展をめぐって、経済発展、環境問題、経済地理的な議論が展開されたが、個人的にはカナダのブリティシュ・コロンビア大学の名誉教授の話が面白く、熱弁であった。それに対して、カリフルニア大学の先生の話はあまにも内容が一般的でいまいちだった。その他、ドイツ人、フィンランド人、米国人、さら上海市の役人などとお話ができて、国際シンポらしい雰囲気を十分味わうことができた。

 Photo

また、ほとんど3日間にわたってわれわれの面倒を見てくれた上海理工大の魏先生には大変お世話になり、感謝している。夜上海の町でお酒を飲んだとき、この10年、上海のどこが一番変わったのかと質問したとき、ある先生が「女性がおしゃれをしはじめたことだ」といった。確かに、街行く中国人女性をみていると、日本の女性のファンションに近い感じもした。

 しかし、私は日本人の女性のファッションと違う点を二つ発見した。それは、横浜にもどってきてはっきりと分かった。

(1)上海の女性は、まだルイビトンのバックをもって歩いていない。(2)上海と東京横浜の気候はほとんど同じだが、上海の女性はまだそれほどブーツをはいていない。

横浜にもどってきらら、ルイビトンのバックをもってブーツで歩く女性の多さに驚いた。フランス人も驚くだろうな。

 

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