拙著『命令違反が組織を伸ばす』をめぐって、たくさんのご意見ありがとうございます。中でも、みなさんからの一番多い疑問は、以下のものです。
(1)そもそも「カント的人間関係」とは何か。
(2)なぜこのようなカント的関係に、私がこだわっているのか。
(3)このような哲学的議論は、新制度派経済学とは相容れないのではないか。
このような疑問は、カントの哲学に関する私の説明不足に起因するものではないかと思います。「カント」という名前に惑わされて、多くの方が不要な妄想をいだかれたからではないかと思います。
これまで、カントについて説明するのに時間がかかりそうなので、多くの人々の質問に対しても、あいまいに答えていましたが、以下、まずカントについての話からはじめ、上記の問題に答えてみたいと思います。
最終的に、私がいいたいのは、以下のように「認識」と「実践」は異なるということです。
●現実の組織において「良い命令違反」が存在することを、(組織の経済学を利用して)だれでも容易に認識・理解できる。
●しかし、それを実際に実行することは相当難しいということ。というのも、それを実行できる組織の条件が「カント的人間関係」が成り立っていることだからです。(以下の議論はまだ不完全なので、今後も洗練して行くつもりです。)
1 カントの人間観
カントは、元祖「批判主義者」です。人間が神ではないことを、それゆえ人間が限定合理的であること、それゆえそのような限定合理的な人間の立場に立ってはじめて人間の立場に立った哲学(いままでは神の立場に立っていた)を語り始めた人です。(後にこの点を批判して独自の哲学を展開するのがヘーゲルです。ヘーゲルによると、人間が神ではないということは、人間を神の外に置くことであり、神と人間の間に線を引くことになり、それは無限の神の概念と矛盾するということです。)
カントの人間観は二元論的です。一方で機会主義的な行動をとる人間像を仮定しています。つまり、人間は一方で動物のように、外から与えられたモノ(お金、食べもの、良い生活)に飛びつくような他律的な存在(行動の原因が自分の外にある行動)、それゆえ因果論(原因―結果)に従う動物のような存在であり、自己利害を追求する存在だと仮定しています。
しかし、それだけではなく、人間は「そのような機会主義的行動は良くないことだ」ということを意識する意識ももっているとします。そのような意識は「理性の事実」としてだれもが認めることができるとします。
ここで、もしこの「理性が存在するという事実」を認めるならば、人間には因果法則に抵抗する意識、外から餌(お金や良い職務・地位)が投げかけられても因果論的に他律的に動かないような意志があるということ、つまり因果法則に抵抗するという意志、他の要因にとらわれない意志、つまり逆に自らはじめる意思、自律的な意思、それゆえ「自由意志」が存在すると考えたわけです。
お金やモノに囚われない意志、モノにつられないで自ら行為する意志、つまり自分自身を唯一の原因として行動する自由な意志です。このような自由意志に従う行為の唯一の原因は自分なので、その行為の責任は他でもなく自分にあるということ、これが動物とは異なる人間としての責任であるということです。そして、この自由意志の存在が、動物ではなく、人間の存在意義なのだというわけです。
以上のことから、カントの人間観は、(1)人間は一方で欲望やお金にとらわれる他律的な動物であり、(2)他方で欲望や因果にとらわれない自律的な自由意志をもつ理性的存在でもある、という二元的な人間観なのであり、人間は自己利害を他律的に追求するとともに、自律的に自由意志もとづいて責任ある行為もするという人間観です。キリスト教的にいえば、人間は動物と神の間にいるということでしょうか。
2 カントの哲学
このような人間観にもとづいて、カントは以下のような議論を展開したわけです。
(1)『純粋理性批判』で解かれている問題(認識論)
限定合理的な人間、つまり因果論に従う他律的な人間は、因果論的に展開されている現実世界を、最低、どこまで認識できるのか。(科学方法論の問題)
(2)「実践理性批判」で解かれている問題(道徳論)
限定合理的な人間には、因果に対抗するような自由意志があり、この自由意志にもとづいて、最低、何がなしえ、何をなすべきか。(自由と責任(道徳)の問題)
(3)「判断力批判」で解かれている問題
限定合理的な人間が、以上のような人間らしい認識と人間らしく自由意志に従って行為するならば、人間は最低何を望んでもいいのか。(幸福を望んでもいいのか)
3 カント哲学と私の研究や議論との関係
上記のカントの(1)の部分『純粋理性批判』に対応しているのが、私の新制度派経済学研究であり、
上記カントの(2)の部分『実践理性批判』に対応しているのが、私が『命令違反は組織を伸ばす』の最後に書いている「カント的人間関係」に関係している研究です。
そして、これら(1)新制度派経済学研究と(2)哲学的な議論の関係は以下の通りです。
(1)私が研究をしている新制度派経済学は、カントがいう限定合理的人間が因果法則に従って行動する側面を分析し、説明し、そして政策提言するだけの学問です。それを実践することは含まれていない。
(2)しかし、そのような分析、説明、政策はすべて不完全です。不完全なので、そのような分析、説明、制度政策は、実際に応用され、実践を通して絶えず進化させる必要があります。このとき、人間は限定合理的なので、集団となって相互に批判的に議論し、誤りを排除して、真理に接近する必要があります。
(3)このように、実践的に批判的議論を通して知識を真理に接近させるためには、議論は物別れやドグマや、暴力による決着を避ける必要があります。あくまでも、どこまで認め、どこまで認めないかを確定するような相互批判的な議論が展開されないと、知識や制度は実際には進化しません。単なる否定や単なる肯定は避ける必要があるのです。
どのようにして、経験科学的な議論を実際に応用し、それを洗練して、さらに進歩させるのか。つまり、どのようにして、暴力やドグマや単なる否定による決着を回避するのか。どのようにして、相互に、批判的で実り豊かな議論ができるのか。これが問題になります。
(4)このような批判的な議論を展開するには、人間同士が互いに、物でも神でもなく、各自限界はあるが、自律的な自由意志をもつ一人の人間として相互に尊重し、相互に相手の立場を認めつつ、批判的議論を通して問題を発見する必要があるということです。これを私は「カント的な人間関係」と呼んでいます。つまり、自由意志を持ち、それを相互に認め合う人々の集まりです。
このような「カント的な人間関係」のもとでは、議論を展開する場合、相互に相手を動物のようにみないので、簡単に相手の議論を否定しないでしょう。また、個々人は自律的なので、誰かの賄賂にものらないでしょう。批判的議論を通して、制度や解決案に問題がでれば、また新制度派経済学によって分析し、より優れた説明を行い、より良い制度を作るということです。
以上が私の立場です。
(1) 新制度派経済学による研究は、あくまで理論的な可能性を示すこと、説明すること、政策提案するだけです。(理論理性の問題=経験科学の説明問題=認識問題)
(2) この理論的な可能性、説明、政策提言を実際に、適応し、実行するには、カント的な人間関係が必要だということです。(実践理性の問題=実践哲学の問題=実践問題)
4 良い命令違反の可能性を理解するのは容易だが、命令違反を実践することは難しい。
以上のように、私が述べている「カント的人間関係」とは、人間の自由意志を尊重し、上司も部下も互いに相手を「物」として扱わないこと、あくまでも一人の自由意志(目的)をもつ人間として扱うこと、それゆえ上司は部下を自分の目的の単なる手段(物)として扱わないこと、部下も上司を自分の目的の単なる手段(物)として扱わないことを意味します。(ゼミでいえば、ゼミ員である一人の学生が、私や菊澤ゼミを自分の就職のための単なる手段として使用しないことです。モノとして扱うようなゼミは、動物的な組織です。このようなゼミは、もっと良いゼミから声がかかると、すぐにゼミを変更するようなメンバーからなっていることになります。)
このような「カント的な関係」のもとでは、上司は部下に命令を下すときも、部下を単なるモノとして命令しない。また、部下も上司の命令に従いながらも上司を単なるモノとしてみないという関係です。
議論のときにも、部下は自分の目的を達成するための手段として上司を利用しないこと、上司もまた自分目的を達成するために部下を単なる手段としないこと、これだけです。(相互に目的であるとともに手段であるという関係は認められます。一方的にどちらかだけが手段という関係は不可です。)
上司が議論において部下をモノのように扱うということは、部下が意見具申しても、上司はモノや動物がいっている意見として無視することです。同様に、部下が上司をモノとして扱うとは、上司の命令を物や動物が述べるようなこととして、自分の目的に合わないときには、影で手を抜き、自分の目的にあうときだけ、聞きいれるという関係です。
カント的な上司と部下の関係とは、上司は自分が神ではなく、動物でもなく、限定合理的な人間であるがゆえに、自分の命令が完全でないことを知っている。同様に部下も限定合理的な人間であることを知っている。そのような上司が発する命令は正しいときもあるし、間違っているときもある。このとき、部下は上司を単なる上に位置するロボットのようにみなし、その命令にただ従うだけではだめだということです。上司を人間として扱い、その命令を一度は自ら批判的に議論する必要があるということです。
このようなカント的関係が成り立たない組織で、メンバーが拙著『命令違反は組織を伸ばす』で説明した基準で、何が良い命令違反であるかを認識することはできると思います。しかし、その「良い命令違反」をそのまま行うことは危険です。
カント的な人間関係が成り立っていない組織で、「良い命令違反」を行っても上司から単なるモノとして否定され、組織から追い出されるでしょう。現在の日本社会、日本の企業組織では、このような「カント的な人間関係」が成り立たない世界である可能性が高いので、「良き命令違反」の存在は容易に理解できても、それを実行することは危険なのです。
しかし、私がいっているカント的な人間関係は決して空想ではありません。優秀な人物数名からなる友人同士では可能な場合があるからです。このような世界では、良い命令違反はありえ、しかも実行することもでき、そしてそのような組織は伸びるのです。このようなカント的人間関係を作ることが、管理者、リーダーの役割の一つなのです。
このような「カント的な人間関係」が、一瞬であったかもしれませんが、ペリリュー島の中川大佐率いる軍隊にも、硫黄島の栗林中将率いる軍隊にもあったのではないかと思います。両者とも、本土から島に降り立っときの訓示として、「兵士をあまり殴ってはならない」と述べています。そこには、単なる形式上の上下関係はなかったのであり、あくまで死を共有する同志だったのではないかと思います。