科学から宗教へ
昔、マンハッタンにあるニューヨーク大学スターン経営大学院に留学していたとき、毎週、たくさんの英語論文を読まされた。
私は、オブザーバーとして博士課程の授業に参加していたが、人数が少ないので、君も参加しろということになり、英語論文を読まされるハメになった。日本の大学と同じように、毎週、レジメを作って、内容を説明しろということだ。
人間というのは、不思議なもので、毎週、いろんな英語論文を読んでいると、何か英語論文の文章には文法とは異なる規則があることに気づいてくるものだ。そして、それをノートにまとめたくなるという衝動に駆られた。(もうひとつ、授業でどこで手抜きをすればいいかに関する法則もすぐに見つけた)
この話をすると、私のことを「学者だなあ」といった人がいた。しかし、それは偏見だ。この意味では、おそらくみんな学者で、日々、法則や規則を必死に見出そうとしているはずだ。
電車通勤や電車通学している人はみんな学者で、科学者だ。
どの位置に立てば座れる確率が高いか。どこの駅で、人が多く降り、そして座れる確率が高いのか。自分の前に座っている人がどんな動作をしたら、その人が次の駅に降りるのか。微妙な動きに集中する。電車の中は社会科学的な実験の場で満ちている。
私の場合、京浜東北線で横浜の方から田町までが研究対象となる。偉そうで良い服を着た高年齢の人が座っている前には立たないようにしている。「きっと有楽町か東京か本社の多いところに行く可能性が高い」と考えるからだ。
しかし、法則は反証されるものだ。「クソ!!蒲田で降りてしまったか」
「少し若く、何か作業服を着ている人は大森か、蒲田に降りるだろう」と予想して、その人たちの前に立つ。
しかし、これも反証された。「なかなか降りない。そうか、京浜東北線は上野や埼玉まで続いていることを忘れていた。」
電車の中で、いろんな法則を作り出し、それにもとづいていろんな推測をして、観察する。そして、法則を進化させてゆく。まさに科学的なプロセスだ。
しかし、もう一つわかってきたことは、このような実験を日々行っていると、はずれると疲れが二倍になってかえってくることも分かってきた。
そこで、最近は、そのような予測はしないことが一番コストが安く経済的なのではないかと思ってきた。
そうだ、「無の境地だ」、「煩悩をもつと疲れて、コストが高いのだ」、「仏陀の涅槃の境地」、「ニルバーナ・・・」・・・・・・・・・・
こうして、私は、いつの間にか、科学者から宗教家になっていたのだ。
いかん、いかん。私は社会科学者なのだ。
いかん、いかん。私は宗教家ではないのだ。
いま、このフレーズを書いていたら、なぜか。三好達治の詩を思い出した。
太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。
もちろん、私は文学者ではない。
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