神様からのメッセイジ
ここ数年、人と会うと、必ず「僕は、学問よりも売れる本を書くことに関心がある」ということにしていた。確かに、そうなのだ。このブログでも、経営学が金儲け学問で何が悪いと書いたこともある。
もちろん、この言葉の裏には、アイロニカルな意味がこめられている。しかし、人間は不思議なもので、こんなことをいい続けていると、いつの間にか本当に堕落してしまうものだ。次第に、手抜き仕事も多くなっていたかもしれない。
ところが、奇妙なことが起るものだ。これは神様からのメッセイジだ。
ある日、私に珍しい仕事の依頼があった。それは、昔懐かしいドイツ経営学者、ニックリッシュ、シュマーレンバッハ、グーテンベルクについて書いてほしいという依頼であった。
はじめはこの仕事に対して、乗り気ではなかった。私はもう何年も前にドイツ経営学は棄てたのだ。
しかし、この仕事に取りかって、私の心の奥深くから何か熱いものが蘇ってきた。金儲け学問としての経営学にうつつをぬかしていた私は、「金儲け学問」という経済学者からの批判と絶えず戦っていたドイツ経営学者の真摯な態度に「はっと」した。
これは神様から私へのメッセイジだと思った。
「経営学がたんに特定の職業的地位の利潤追求だけを取り扱うならば、研究対象は利潤追求ではなく、職業であることが明らかになる。問題は、実はいかにして最も多く儲けるかではなく、いかにしたら最も経済的に財を製造しうるか、いかにしたら最も合目的に需要供給を調和させうるかということだと思われる。この大きな相異は、二つの技術論すなわち医師の技術論と製造業者の技術論を並べてみれば極めて明白となる。私経済的動因は両者にとっては共に収入への努力である。それを以て問題を論じるとすれば、おそらく両者は同じ技術論を持つことになるだろう。しかし、いずれの技術論もこの問題を顧慮しない。医師の技術論はいかにして人体は健康を維持し、または回復するかを示し、製造業者の技術論はいかにして経済体は健康を維持し、または回復するかを示すことにある。」
H.ニックリッシュより
「私どもが教育と研究において注目するのは、企業者ではなくて企業であります。そして、収益性概念を通じて、業務利益の概念がわれわれにとって独自の意義を有することになります。しかし、このことを確認した後に直ちに指摘しておかなければならないことがあります。それは利益(Gewinn)と利潤(Profit)は私どもにとっては同一のものではなく、利益は経済法則と本質的な関係にあるものですが、利潤はそれが欠如しているということであります。利益は、企業で働く諸力の真の給付と常に等しいものですが、しかし利潤はーペテン、詐欺や他の同様の手段によってー直接作り出されるものであります。ここでさらに強調しておかなければならないのは、私たちにとって第1に重要なのは企業者資本の収益性ではないということであります。企業者の営利追求は、ここで考えられている概念と直接関係ありません。間接的には、もちろんあります。しかし、それは職員や労働者ならびに他企業(仕入先、販売先、競争相手)の利害も含めたものが関係するのです。経営科学・私経済学においては、全企業収益性という概念が支配しているのであります。資本について論じる場合には、総資本収益性の概念が、労働について論じる場合には、企業者の労働だけではなく、経営内で給付される総労働の収益性の概念が支配しているのであります。」
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