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2006年6月

2006年6月 7日 (水)

教師の新古典派宣言

 中央大学アカウンティングスクールの菊澤ゼミでおもしろくもあり、懐かしい光景にであった。

 それは慶応大学出身の社会人で、発表のとき、私の著作をすべて机の上に積み上げて置き、本の背表紙を私の方に向けて、発表したことだ。

 この光景、私と同じような世代の慶応出身者は、きっと見覚えがあるはずだ。

 この意味を説明しよう。

 昔は、偉い先生が沢山いて、そういった先生は本も沢山書いていて、そういったゼミでは先生は絶対だったのだ。だから、ゼミ員は先生の著作はすべて購入して読み、先生の論文をすべて調べ上げ、先生の授業はいわなくても必須科目である。もちろん、ゼミで発表するときは、先生の著作を積み上げ、その背表紙が先生にみえるように・・・・・・・

 上記の光景は、これだ。

 もちろん、私はこのようなことを学生に要求した覚えは一度もない。しかし、私はその光景をみたとき、その人はきっと偉い先生のゼミにいたんだなあと思い、非常に懐かしさを感じた。

 さて、そういった権威主義的な先生もゼミもいまはほとんどない。そんなことをすれば、逆に反発されかもしれない。そんなやり方は時代遅れで、馬鹿げている。確かにそうだ。

 しかし、私が言いたいのは、そのような先生やそのような時代に反発しすぎて、先生もあまりにもいい先生になりすぎてしまったのではないかということである。そして、本も書かなくなり、机に積み上げて、先生に向ける本もない。もっとひどいのは、ゼミ員が先生の講義を取らないという事態も起っているらしい。さみしい。あまりにも寂しい。

 私は、この傾向に対して断固として反対したい。そこで、最近では、沢山、本を書いて、権威主義的に悪い教師になって、学生が発表するときには、何とか私の本を積み上げさせ、その背表紙をこちらに向けさせたい、とひそかに思うのだ。

        これは、ひそかな私の新古典派宣言である。

 しかし、うまくいくかなあ。

気品の泉源 智徳の模範

 慶応義塾大学のモットーといえば、ほとんどの人たちは「独立自尊」という言葉を挙げるだろう。私も学生時代、我が母校慶応といえば、この言葉しか知らなかった。「独立自尊」、西洋文明に明るかった福澤諭吉らしい言葉だ。

 慶応義塾大学を卒業し、社会の荒波に立ち向かって行く、若い学生たちに贈りたい言葉だ。どんなにつらいことがあっても、プライドをもって歩んで欲しい。学生を見送る先生は、そういいたいだろう。

 しかし、私が好きな福澤の言葉は、実はこれではない。

            「気品の泉源 智徳の模範」

 これだ。 

 慶応義塾大学は「気品の泉源」であり、塾生は「智徳の模範」として、社会に進んでもらいたい。教師は「気品の泉源」となることを教え、それを塾生は学んで「智徳の模範」として社会に向かってほしい。これが、教師としての私の信条だ。

 最近、米国流のビジネス・スクールやロー・スクールに影響され、日本では専門職大学院が次々設立されている。この傾向を好ましい傾向と思う人もいるだろう。しかし、私は危惧している。私もかつて中央大学のアカウンティグスクールにいたので、実感するのだが、実は大学が「下品の泉源」になるのではないかと、危惧している。

 確かに、世の中には、もうかりそうな知識は沢山ある。しかし、それだけではダメなのだ。下品なのだ。下品な話は説得力がない。人を説得し、人を導くにはやはり「気品」が必要なのだ。

 それは何だ。気品って何だ。と思うかもしれない。

それは、知るものではなく、身につけるものなのだ。そういう私も残念ながらいまだ「低脳未熟大学」の教授で身についていないのだ。

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