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2006年1月

2006年1月31日 (火)

ケース・スタディをめぐる疑問

 ビジネス・スクールやアカウンティング・スクールをめぐる誤解の一つとして、ケース・スタディをめぐる誤解がある。

 「米国流のビジネス・スクールといえば、ケース・スタディ」と思う人は多いだろう。しかし、米国でケース・スタディを売りにして成功しているビジネス・スクールは、実質的にはハーバード大学のビジネス・スクールだけではないだろうか。

 確かに、米国のどこのビジネス・スクールでもケース・スタディはなされているが、それがメインではないように思う。ケース・スタディはハーバードのようなトップ・マネジメント教育やゼネラル・マネジメント教育にはいいが、その他の分野ではどうだろうか。

 経済学、ファイナス、会計を重視するシカゴ大学のビジネス・スクールは、議論を引き出すケース・スタディではなく、全く逆に講義中心でアカデッミクだといわれている。そして、その他のビジネス・スクールでも、ファイナスを重視する大学は、それほどケース・スタディを重視しているわけではない。

 そもそも全米トップ20に入るようなビジネス・スクールは学生数が非常に多く、私がいったニューヨーク大学スターン・スクールなども人気の教授の講義などはほとんど大教室(階段教室)になる。そのような状態で学生と議論するケース・スタディなどは、物理的に難しいし、あまり効果的とは思わない。

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 もう一つ、ケース・スタディは、ただ一つの会社の事例を扱えばよいというものではない。そんなことをやってしまうと、社会人学生はかんかんになって怒ってしまう。「あたりまえの事例をだして何の意味があるのか」「そんなことを学びにここにきたわけではない」とお叱りを受けることになる。

 その通り、そんなことは、習わなくても自分でも認識し、分析できるのだ。意義のあるケース、意味のある事例は、常識を覆すような、あるいは既存の理論に反するような反証事例、アノマリー(変則事例)なのだ。

 米国のビジネス・スクールで学生が拍手をおくるのは、自分たちの予測を超えた結末、経営の常識を超えた展開、ほとんどの学生が途中までしかついていけなかったケース、既存の理論では説明できないケースなのだ。

 このようなケースを作り出すことも、探すことも非常に難しい。しかし、このようなケースは、何百の当たり前のケースをこなすよりもはるかに意味があるのだ。

 このようなことを、学生よりもこれからビジネス・スクールの教員として生きる人のほうが認識する必要があるだろう。

 幸運にも、私はこのような苦しい世界から足を洗い、アカデミックな世界に入ることになった。

ラッキー!!!!!!!

これからは、デカンショ、デカンショ(若い人は、この意味わかるだろうか?)

答え

デ=デカル●

カン=カン●

ショ=ショーペンハウ●●

2006年1月24日 (火)

批判か好きかー研究の基本態度

 論文を書くとき、先生から対象を批判的に扱うことが大事だといわれたことがないだろうか。対象となる人物の学説を批判的に考察し、問題を見つけ出す。これが、研究論文だというわけだ。

 しかし、私は不思議なことに、好きな人の学説を研究しなさいといわれて、学者として育ってきた。そして、この意味を、いつの頃からか、よく理解できるようになった。

 結局、相手を批判ばかりしていると、相手がよく見えないということだ。極端にいえば、はじめから好きではないのだから、はじめから相手を見ようとしていないのだ。このようなやり方をして、良い分析、鋭い分析、革新的な分析などできるわけがない。対象を批判することからはじめると、結局、批判し、問題を見つけ、それでオサラバだ。ただそれだけだ。

 これに対して、分析対象を好きになると、他人には見えないものが観えてくる。これは恋愛と全く同じだ。他人にはわからないが、自分だけが彼女のよさがわかる。他人がどれだけ彼女を悪く言おうと、彼女の良さは自分だけが観える。自分が彼女のすばらしさを最も知っているし、それを語りたい。「have to」 ではなく、「must」なのだ。

 その分析は、現実とは異なる妄想かもしれない。しかし、そんなことはもうどうでもいいのだ。その分析は恐ろしく深く、鋭く、しかも革新的ですらあることが多い。むしろ、対象自体を批判するのではなく、対象の良さを理解できないやつらの浅はかさを逆に批判することになるのだ。

 研究も全く同じだ。これをやってのけている人物の一人は、有名な批評家「小林秀雄」だ。彼は、自分が好きな人物しか、彼の評論の対象としない。ときに、彼の評論は事実無根とか、あまりにも空想的といわれている。しかし、その分析の深さや新しさは、他の評論家を遥かに凌駕し、他の評論家をよせつけない。

 特に、彼の「モーツアルト」という文章は絶品だ。モーツアルトをこよなく愛する人しか見えないモーツアルト論である。それは、恐ろしく深く、恐ろしく鋭い分析だ。この評論を読めば、彼がいかにモーツアルトを愛していたかがわかる。モーツアルトの一見陽気で楽しい音楽の背後にはいつも悲しみが走っていると彼はいう。そんな魅力的なモーツアルトの音楽とはいったいどんなものか、一度聞いてみたい、と素人でもつい思ってしまう文章である。

 「そんな研究者に私はなりたい」と、宮沢賢治風で文章を終えたい。

 

 

2006年1月20日 (金)

盗まれたコートのその後

 非常勤講師にいっているR大学で無くなった私のMCMのハーフコートのその後についてお話したい。

 私のコートが無くなった部屋は、実は非常勤講師室であり、学生はあまり入ってこない。そこで、隣の管理室の管理人たちは「盗まれたのではなく、誰かが間違えて着ていった可能性が高いと思います」と慰めてくれた。

 私は、なるほどと思いつつも、ほとんど諦めて帰宅した。しかし、帰宅してから、いろいろ推論した。

もし大学の教員が私のコートを間違えたとすれば、非常勤講師室にその人のコートが残ることになる。すると、証拠が残るので、間違えた人はきっとできるだけ早く、取替えにくるだろう。

その結果、管理人から私のところに電話がかかり、そこで私は何と返答すればよいだろうか。

「それを郵送してくれ」といおうか。しかし、この場合、誰が郵送費をだすのか。

「今度、最後の試験のときにでも取りに行きます」といおうか。しかし、この場合、私はコートを着て行くから、その帰ってきたコートを手でもってこなければならない。少し面倒だ。

いろいろとひとりで考えていると、だんだん腹が立ってきた。人のコートを間違えるなって、いったいどんな先生だ。ほのかにカルバン・クラインの香水の匂いがするはずの私のコートを間違えるなんて・・・・・

こうしているうちに、電話もなく、むなしく1週間が過ぎた。

私は、コートのことはあきらめたが、1度ぐらい、こちらから講師控え室の管理人に電話をして、これであきらめようと思って、実際に電話した。

その結果、わかったことは、講師控え室に一つコートが1週間残っていることだ。このことから、管理人はやはり盗まれたのではなく、間違えたのだといった。私もそう思う。

しかし、問題は1週間たってもなぜ取替えに来ないのか。これでは、盗まれたのと同じだ。いったい私のコートはどうなるのか。ずうずうしい教員だ。

残念!!!

2006年1月12日 (木)

人生の法則

 一日の最初に、いやなこと、悪いことが起ると、次に何を考えるだろうか。次は、いいことがあると考えるか、続けていやなことが起ると考えるだろうか。

 私の友人である国学院大学の国文学者は、若いときから「いやなことが起ると、今度は必ず反対にいいことが起る」という人生の法則をもっている。この考えは、経済学的にいえば、均衡論だ。常に、プラスとマイナスが均衡するという、ある意味で美しい人生観だ。

 しかし、私の場合、なぜか、「悪いことが起ると、また悪いことが起る」という人生の法則をいつからかわからないが、とにかく若いときからもっている。これは、非均衡論だ。日常言語でいえば、「泣き面に蜂」なのだ。

 今日は、まさに、この法則が検証された日だった。まず、お気に入りのKentの白いワイシャツを来て(もちろんスーツで)、しかも新春の福袋で買った新品のMCM(ドイツブランド)のハーフコートを来て、R大学に非常勤講師として出かけた。

 電車で、新しい論文の構想を整理をするため、座りながら黒のインクペンで手帳にイメージを書き出していた。目的の駅に到着したので、ペンを急いで胸のポケットにいれた。しかし、そのペンのキャップが外れていることに気づかず、大学に到着したときには、黒のインクが胸のポケットにニジンデいた。

最悪!!!

 そこで、私はいつものように人生の法則を思い起こした。今日はまた何かあるかもしれないと。授業が始まる前に、トイレに入った。私の手には、いつものように(1)マイク、(2)音響機器を操作する大きなキー、(3)チョークが5本ぐらい入っているケース、そして(4)講義ノート。用をたすためには、これらをどこかに置く必要がある。

 これらを狭く、少し高い場所に置いたとたん、チョークが入ったケースが床に落ち、5本のチョークは飛び散り、トイレが白、赤、黄色、青のチョークの破片で大変なことになってしまった。イメージとしては、トイレで小銭をばら撒いてしまったのと同じ状態だ・・・・・

最悪!!!

 その後、講義が終わって、何とか非常勤の控え室に帰ってきたら、何と私のMCMのハーフコートがない。

最悪!!!

 こうして私は、今日、冬なのに、コートも着ないで電車に乗って帰ってきた。冬なのにコート着てていない私をみる他人の目は厳しい。私は、冬でも誰かコート着ていない人はいないか必死に探した。元気のいい高校生・中学生だけだ。残念!そこまで若くない。彼らに、同化できない。

今日は、私の人生の法則を以下のように洗練したい気持ちだ。

「1泣き面に 2蜂に 3ウンコを踏むだ」

2006年1月 3日 (火)

書初めとイノベーション

年末から、九歳の息子は正月に書初めをすると張り切っていた。新年になり、彼は準備ばんたんで、書初めに臨んだ。

 「何を書くの?」と私が聞いたら、息子は「新年」と書くと答えた。

ところが、気負いすぎて、なぜか最初の「新」の字が「親」という字の方向に進んでいるように思った。このことに気づいた息子も、あきらめて新しい紙に取り変えようとした。

しかし、私は「そのまま進まないと、勢いがなくなる」と助言した。

息子は気を取り戻し、再び書き始めた。やはり、息子の筆は予想した通り「親」という字に進んだ。そこから、私は「親子」か「親切」という字に進むと予想した。

しかし、息子の筆が進んだ道は、「親指」だった。

「新年」から「親指」、全く予想できなかった。イノベーション(革新)というものは、こういうものかもしれないと思った。

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